2018年4月19日木曜日

自然と求めるもの

クレヨン牧師のミニエッセイ

「自然と求めるもの」
 
 「いま食べたいものが、身体の栄養に不足しているもの」と、どこかで読みました。そこで振り返ってみますと、私の場合は野菜が食べたくてしかたありません。ということはビタミン不足かなと思います。
 
 さて、あれは中学生くらいのときでした。母親のつくる料理に、一日おきにくらいに「野菜炒め」が出て来ることがありました。「野菜炒め」が出ないときは、どっさりのキャベツの千切りがでました。私たち兄弟そろって不平を言ったことを思い出します。兄なんかはお皿をひっくり返したのではなかったでしょうか。とにかく母が作ってくれた料理に文句ばっかり言った時期があったのです。
 
 いまにして思えば、あの頃の母は仕事に忙しかったころでした。朝はやくから夜おそくまで立ちづくめで働いているときでした。たぶん、野菜が多かったのは、母の身体が自然と野菜を求めていたためだと言えます。それに気が付かなかったのです。母の身体をいたわってあげられなかったことが、恥ずかしく思います。
 
 自然と求めているものがあります。それは自分ではわからないものです。なんでこの人はこればっかり言うのだろうとか、この本ばっかり読んでいるとか。しかし、よくよく考えてみると、それがその人の求めているものだと言えます。私はどれだけ、主イエスのことを考え、御言葉を口に出しているだろうか。そこに求めているかどうか、自分を吟味している秋です。