2018年3月13日火曜日

「あたえられた時間の中で」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「あたえられた時間の中で」
 
 アナトール・フランスの随想録「エピクロスの園」に、次ぎのような話があります。
 
 「ある精が一人の子供に一つの糸毬を与えていう。『この糸はお前の一生の日々の糸だ。これを取るがよい。時間がお前のために流れてほしいと思う時には、糸をひっぱるのだ。糸毬を早く操るか永くかかって操るかによって、お前の一生の日々は急速にも緩慢にも過ぎてゆくだろう。』子供はその糸毬を取った。そしてまず、大人になるために、それから愛する婚約者と結婚するために、それから子供たちが大きくなるのを見たり、職や利得や名誉を手にするために、そして最後に、悲しいかな、厄介な老年に止めを刺すために、糸を引っ張った。その結果は、子供は精の訪れを受けて以来、四か月と六日しか生きていなかったという」。
 
 若いころは、自分はどうなるのかと未来を見てみたくてしょうがありません。一方、老人になればいまの時を見たくないとの思いがでてきて、時よはやく進めと思います。しかし、時間は神様によって決められているのです。その日その日が神様が決められた時間であって、早くも遅くもすすみません。
 
 神様が時間を早くも遅くもなさらないのは、その時の自分をしっかり生きてみなさいとの励ましだといえます。病気の時にはそれを受け入れ、楽しい時には楽しみ、それぞれが与えられた時間の中で生きるしかないのです。