2017年9月6日水曜日

「人の知識をこえた愛を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「人の知識をこえた愛を」

エフェソ 3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

盤珪禅師の逸話にこのようなものがあります。

 「ある僧が盤珪禅師のところへまいり、次のように訴えます。『自分は生まれながら短気である。どうしたら、この短気がなおせるか』と問います。さて盤珪禅師は何と答えたでしょう。盤珪禅師いわく『さて、面白い人じゃ。その短気がいまあるか。あればここへだしてみなさい。なおしてあげよう。さあだして。さあだしてみよ』と」私たちは自分はこうだときめつけています。しかし、その人にとってそれは一部分であり、生まれながらそうなのではありません。自分はこうだというきめつけが、自分を縛っているということにあまり気がつきません。生まれながらの私は、神様の姿を刻まれた人としての私がいるだけです。どの視点でみるかで、かなり見え方がちがってくるのです。

 パウロは、エフェソの人々がキリストの愛にしっかり立ち、神様の愛を知る者になるように祈ります。これはパウロの執り成しの祈りでもあります。キリストの十字架の愛を知ることは、人の知識をはるかに超えたものであること。その愛か知り、広さ、永さ、高さ、深さを理解することも大切であると祈ります。

 LWFから救援アドバイザーのマタイさんと食事をしたことがあります。彼にはインドに3名の娘さんがおられるそうです。そのうち、双子の娘さんもおられると聞きました。インドでは娘さんが結婚するとき、娘さんの家族が持参金をたくさん持たせねばならないと教えていただきました。多額の持参金がないと結婚が破断になったり、実家に戻らされたりするとか。娘さんをもつと破産するなとか。しかし、もともとの理由は嫁いでいった先で生活に苦労しないためだそうです。親の娘への愛情がそこにあらわれているのです。どちらから考えるかでかなり違うはなしだと思いました。親心というのでしょうか、それがあるからいまも風習としてのこっているのでしょう。

 パウロは「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり」と言っています。神様の愛というのは人の知識をはるかに超えています。その愛を知ることが神様の豊かさにあずかることになると言っています。その豊かさにあずかったものは、すべてに満たされていくのです。まずは神様の人の知識を越えた愛をしることです。