2017年8月31日木曜日

「一冊の本から出会い」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「一冊の本から出会い」
 
 関西地区の「教会学校キャンプ」に参加してきました。今年が三十二回目のキャンプだそうです。歴史の重さと内容に感動して帰ってきました。このキャンプのスタッフの中には、キャンプで育てられた青年たちがいます。その青年たちがこのキャンプの機動力となっているのです。
 
 さて、その青年スタッフから声をかけられました。めったに若い女性から声をかけられないので、ビックリしました。その内容はといえば、「『神様のクレヨン』を書かれたのは先生ですか。毎晩寝る前に一頁づつ読んで日課にしています」ということでした。
 
 なんだかとっても嬉しくなりました。そして、神様のなさることに感謝しました。あの一冊の本を通していろいろな方と出会わせてくださるのです。「『神様のクレヨン』が聖霊の力に導かれますように」と祈ってきました。その祈りに神様が応えてくださっています。これからさきこの一冊の本がどのような働きをしてくれるのでしょうか。いまはこのように祈っています。
 
 「神様、私と『神様のクレヨン』をどんどん用いてください」

2017年8月30日水曜日

「清楚感」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「清楚感」

マタイ 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

秋になりました。小学生の句集「ちいさな一茶たち」には次のような句があります。

  かあさんいない落葉がとんでいくばかり

 この気持ちは、痛いほどわかります。学校から帰っても誰もいない家。本当は学校であったことを一番に話したいのに。その寂しい気持ちを、落葉が飛んでいく音に心を合わせたのでしょうか。私も鍵っ子だったので共感してしまいました。もうひとつ。

秋の空やわらなそうな雲の城

 青い空を眺めていると、心が清々しくなってきます。

 秋はとても清楚な気持ちになります。これはどこからくるのでしょうか。きっと神様が造ってくださった自然が秋の「清楚」なものを持っており、夏の激しさからの安心を与えてくれているのかもしれません。私たちはこの清楚の中にある清潔感が好きなのかもしれません。

 クリスマスの時、東の方から3名の占星術の学者たちが星に導かれてベツレヘムにやってきました。救い主の誕生を知らせる星をみて御子を拝みにやってきたのです。ベツレヘムまでくると、星がある場所の上で止まりました。学者たちは大喜びで、星が泊った家に入ってみると、幼子と母アリアがそこにいたのです。そこに漂っている清楚な雰囲気が伝わってきます。

 あるホテルの支配人が、若いころに指導を受けたことを話してくださいました。ホテルは「清潔である」だけではいけない。大切なことは「清潔感を感じていただけるか」だと。「清潔」と「清潔感」とは、同じようで全く違うことです。清潔であるには清掃を徹底させればいいのですが、それだけでは清潔のままです。そこにお客さんの気持ちを考え、心をこめて清掃する時に「清潔感」が生まれるというのです。清潔感とはそこに係る人の問題なのです。どれだけ心がそこに込められているかなのでしょう。

 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。この一文の中に、クリスマスの祝福を感じます。この世に誕生した救いイエスさまの誕生が全世界に知らされる時、その最も中心には母と子の姿があるのです。この出来事のなかに、神様の清らかさ清楚を感じます。

2017年8月29日火曜日

「生かされている人を見る」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「生かされている人を見る」
 
 「信仰の継承」という言葉をよく聞きます。しかし、それがどんなことなのか、どんな信仰を継承するのか疑問に思えることがあります。継承することは大切ですが、信仰の押しつけにならないことを望みます。
 
 我が家の娘たちも自分の言葉で祈るようになりました。少し祈り方を教えましたが、あとは自由に祈ることを黙認してきました。聞いていて首をかしげるものもありましたが、その一生懸命さに感激しています。そんな娘たちも、最近は驚くべき祈りをします。先日もこのように祈ってました。
 
 次女「神様、この食事を感謝します。食べれない人も祝福してください。○○ちゃんが風邪をひきました。癒してください。アーメン」。
 
 長女「神様、この食事をおいしく食べられるようにしてください。今週礼拝にこれなかった人も祝福してください。病気の人も祝福して、なおしてください。イエス様によって祈ります。アーメン」。
 
 きっと、教会でどなたかが祈っているのを聞いていたのでしょう。そしてその祈りを覚えたのだと思います。「祈りなさい」と教え込むのではなく、祈ることの素晴らしさを感じとってほしいものです。娘たちがこれからどんなことを継承してゆくのでしょうか。しかし、大切なことは子どもたちがどんな大人たちの背中を見ていくかです。その点、教会に集う子どもたちは幸せです。キリストに生かされている大人たちをみることができるからです。
 

2017年8月28日月曜日

「光を迎える」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「光を迎える」

 ヨハネ 1:4-5 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。

中国の昔話です。「年をとった王が、溜息をついていった。『わしはもう七十才になってしまった。まだこれからでも学問をし、本を読みたいとは思うが、こう遅くなってはどうにもならぬ』。するとお付きの学者が『遅くなっても、日が暮れたら、明りをつければいいのでは』と返答する。王は『何を申すか、からかわないで欲しい。わしが遅くなったと言ったのは、一日のことではなく、一生のことだ』。すると学者はゆっくりと、『なんで王をからかいましょうぞ。人間の一生、少年時代に学問するのは、朝のようなもので、太陽は次第に光りをましてきます。壮年時代は、つまり昼どき、太陽は明るく輝きます。さて老年は、太陽がもう沈み、あかりの力を借りなければなりませんが、しかし、なにもなくて、真っ暗のなかを手探りするよりはずっとましではありませんか』と」。光があることが私たちを導くのです。

 ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。

クリスマスの時期にくるのが冬至です。冬至は、二十四節気の第22番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときでだいたい1222日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ4世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。

イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらします。明日からは暗闇は少しずつ短くなっていきます。私たちの中にキリストを迎えるということは、この光が自分たちに与えられることを意味します。クリスマスはキリストの光をお迎えすることです。暗闇の中にあってもこのキリストの光が私たちをしっかり導いてくださいます。

2017年8月26日土曜日

きままな休日・油揚げコロッケ

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   不作だったというじゃがいもをたくさんいただきました。
   ということで定番のコロッケとガレット!芋尽くしです。
   コロッケってほんとうに家庭の味ですよね。
我が家は最近ころもに油揚げを使用しています。
中に詰めてあげるだけ。簡単なんです。
   コロッケに味の素と醤油をぶっかけて食べるのが大好きです。
最高にに合わせな時間ですばい。

2017年8月25日金曜日

2017年8月24日木曜日

「ケンカしてても」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ケンカしてても」
 
 いつもケンカばっかりしていても、やっぱり姉妹はどこかで助け合っているものだなと思います。我が家の娘たちは、時間があればささいなケンカをしています。親が注意するのが面倒になるくらいケンカをしているのです。
 
 さて、先週のことでした。長女が一泊保育のために幼稚園へ行きました。次女もその日ばかりはケンカする相手もなく、静かに遊んでいました。ところが次の日のことです。次女がいつもより早く起き、その日の第一声は「おねえちゃんを迎えに行こう」でした。きっと一人でさみしかったのでしょう。ところがそれからが大変。お姉ちゃんの下駄をもって、「はやく迎えに行こう」の連発。郵便局へいっても、スーパーへ行っても、その下駄を握りしめて離さないのです。やっぱり姉妹なのだなと思いました。いつもあんなにケンカばっかりなのにと。
 
 キリスト者は兄弟姉妹といわれます。兄弟姉妹には仲がいいときもあるし、意見が食い違うときもあります。はたまたケンカになることだってあります。しかし、キリストの十字架というきずなで結ばれているのです。そのきずなにあって赦しあうことができるのです。
 
 正午に幼稚園に迎えにいったときの次女の第一声は「なにしとったん」でした。長女は「いいじゃん」といってまたケンカがはじまりました。

2017年8月23日水曜日

「定められています」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「定められています」

ルカ 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

大阪教会の機関紙に、ある信徒の方が「引き際にロマンを見た」という題で、昨年天に召された石橋幸男牧師語録を書いておられました。「信仰の業で最も偉大なことは、いかに多くの人に福音を伝えたかではなく、伝えねばおられない人間に変えられたかである」「『自分を愛するように隣人を愛せよ』古今東西地球上にただ一人の自分を愛し切らねば、人に愛を注ぐことはできない。神が自分をして、何を表現されようとしているのか、使命を模索し、高める努力をすべきである。他人から必要とされる人に変えられなければ、その人の信仰は空しい。泳げなくてどうして溺れるものを救うことができるだろうか」。信仰の心を定めることを教わったようです。

 イエス様を出産した母マリアは、律法の定めに従ってその子を主に捧げるためにエルサレムの神殿にやってきました。そこでシメオンに出会います。彼は「正しい人で信仰があつく」「聖霊が彼にとどまっていた」人でした。シメオンは母マリアに神様によって定められたイエス様の受難を予告し、母マリアもそれを目撃することになると預言しました。

 動物(ペット)と共に生きるというラジオ番組がありました。ペットロス症候群が話題になっており、日本人に多い現象だと言っていました。もともと日本人の感性では、食べる動物とペットを区別できず、その境界線を曖昧にしてしまうそうです。欧米の感性は「神様が食べる動物と、ペットを区別して創られた」と考えており、「この動物のすべてに死が与えられている」と考えるのだそうです。だから、死ぬという前提のもとに「いまどのように接するか、共に過ごすか」が大切だというのです。そこには十分に愛情をそそぐのだからペットロス症候群にはならないということでした。すべては信仰の問題なのかなと思います。

 イエス様の母マリアはすべてを心に留めていきていきます。神様の子どもであるイエス様に、我が子でありながら従っていく人生を歩むには「すべてを心に留める」しかなったのでしょう。シメオンの預言をとおして受難を知った母マリアでしたが、その預言ゆえに今をいきることができたのです。

2017年8月22日火曜日

「一歩一歩を」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「一歩一歩を」
 
 「一歩一歩、ていねいに歩いたことがありますか」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。一歩一歩をていねいに歩いていけば、必ず目的地につくはずです。「歩歩是道場」ということです。弘法大師の言葉にも「一歩三礼」というものがあります。つまり一歩一歩を参拝する気持ちで歩きなさいということだと思います。
 
 私たちはどうでしょうか。一歩一歩を大切にしているでしょうか。実際祈りつつ一歩を歩いてみると、なかなか大変です。一歩進んで祈り、一歩進んで祈る。大変ですがとても心が満ち足りてきます。絶えず祈るということは、一歩一歩をていねいに歩くことかもしれません。
 
 いま徳山教会はどこに行こうとしているのか。目的地はどこなのか。それを考えています。宣教する教会となるには、目的が必要です。主イエスはそのことでどのような御言葉をくださるのでしょうか。
 
 「向こう岸へ渡ろう」。私たちにとって向こう岸とはどこなのか。みなさんといっしょに向こう岸を探したいと思います。そして一歩一歩をていねいに歩いていきましょう。

2017年8月21日月曜日

「約束を信じる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「約束を信じる」

ルカ 1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

神様がこの教会に託されている「宣教の力」は、いったいどのくらいあるのでしょうか。私としては底知れぬものがあると実感しています。ところが、まだまだ教会の礼拝は空席の方が多い。なぜでしょうか。その責任は神様にあるのでしょうか。神様の「宣教の力」を信じ、全てを捧げることのできない私たちに責任はあるのです。「できることしかできない」との言葉を良く聞きます。しかし、神様の宣教の前では、その言葉は通用しません。できないことをも要求されるのが神様なのです。つまり、神様ができると言われることを、私たちができないとはいえないのです。まずは神様の力を信じることが求められていると思います。

 イエス様の母マリアは、受胎告知を受けたあと親類のエリサベトを訪問します。神様のお告げによって身重になった2人がそこで出会いました。エリサベトはマリアの訪問を喜び「あなたは祝福された方です」と挨拶をしました。その時マリアのことを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言いました。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との言葉を受けてのことでした。

 保育園では新年度がはじまると、帰りの時間近くに門のところに立っている子どもたちがいます。お迎えを待っているのです。保育園に泣きながらやってくる子どもたちです。小さな子どもたちが、たとえ昼間であっても親元からはなれて園で生活するのは大変ことです。不安で寂しいのでしょう。朝から泣き叫ぶ子どもに親たちは約束をしていきます。「5時には迎えにくるからね」と。だから門のところで待っているのです。しかし、多くの親は5時に迎えに来ることはできません。園長先生は「できない約束はしないでください」と言われます。この時、子どもの心のなかで「信じる」ということがどのように受け止めているのでしょうか。

 エリサベトはマリアの訪問を受け「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」といいました。神様は必ずみ言葉どおりに実現される方です。それを信じることが私たちに祝福をもたらします。必ず実現するから信じることもできます。信じる心を育てるには裏切らないことだと思います。

2017年8月19日土曜日

気ままな休日・鹿児島はとんかつでしょ!

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ま~~~~~お盆の帰省客で鹿児島はいっぱい。
まさかこんなに暑いので観光ではないでしょうが人がいっぱいです。
で、いつもなら少し並べば食べられる豚カツも時間がかかるんです。
それでも食べなきゃきがすまないんですね~
やっぱり豚カツは大好きです。元気も出ますし。
栄養もいいでしょう!
また来週もたべたいな~~~

2017年8月18日金曜日

鹿児島教会に中高生が集った!

九州教区中高生キャンプが
鹿児島教会で行われました!
ルターとザビエルがてーまでした!

2017年8月17日木曜日

「うな重が牧師に必要?」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「うな重が牧師に必要?」
 
 西教区牧師退修会が津和野で行われました。現代のキリスト教にとって津和野(キリシタン殉教の地)はとても意味深いところです。宣教二世紀に入ったルーテル教会にとって、西教区の牧師たちが津和野から宣教二世紀を踏み出すことに神様の導きを感じています。
 
 さて、その牧師会の最終日は、「ドライブイン津和野」で昼食をとることになりました。それぞれに自由にメニューを注文してよいことになりました。誰が何を注文するのか興味深くながめていました。結果は中華丼・八宝菜定食・焼き肉定食・ハンバーグ定食・ざるそばが各一個づつ。圧倒的人気はうな重で十三個でした。
 
 牧師はやっぱり体力勝負なのでしょうか。自然と体が求めているようです。神様はその人にいま必要なものをご存知です。そしてそれを求めるように導いておられるのでしょう。
 
 あなたがいま無意識に求めているものは何でしょうか。祈りですか。御言葉ですか。愛ですか。お金ですか。食べ物ですか。しかし、求めても与えられないのならば、本当に求めなければならないものを求めていないからです。必要なものは信仰によって与えられるのです。

2017年8月16日水曜日

「心強い存在がある」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「心強い存在がある」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。普段、私たちは神様に守られていきていると、その存在に気がつき感謝するということを忘れてしまいます。今日も元気に目を覚ますことができた、それだけでも神様が大きな恵を与えてくださっているのですが、神様の存在を感じることができません。だから、人は痛み苦しみにであったときに、神様の知るようになるのでしょう。苦しい時の神頼みではなく、私たちには共にいてくださる神様がおられることを思い出すのです。

 ルカによる福音書は、クリスマスの出来事の中心に2人の女性を置いています。一人はマリア、もう一人はエリザベトです。このエリザベトはマリアの親類でエンカレムに住んでいました。年をとっており、不妊の女といわれていました。夫であるザカリアのもとに天使ガブリエルがきて、エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもることを告げます。クリスマスの出来事の中に、神様の奇跡で子どもを身ごもった女性が2人いたのです。

 保育園のチャプレンをしていた時のことです。「氷鬼」という遊びがあります。鬼ごっこのようなものですが、鬼にタッチされたら固まって(氷になって)動いてはいけない。仲間が助けにきてタッチされるとまた動けるようになるという遊びです。この遊びをしている時、一人の男の子が泣きだしました。別になにがあるわけでもないので、「なぜ泣いているの」と聞きました。すると「氷になったまま、誰もタッチに来てくれない」と言うのです。たった一人でじっと立っていることが寂しかったのでしょう。自分のことを誰も気づいてくれないということが辛かったのです。

 イエス様を身ごもったマリアも、自分一人の問題として受けとめようとしました。聖霊によって身ごもったなどと誰も信じてくれないからです。しかし神様はマリアを一人にはしておかれませんでした。親類のエリザベトも洗礼者ヨハネ身ごもっているというのです。年とった不妊の女と言われていたエリザベトも神様の奇跡によって身ごもったのです。一人ではないことがマリアにとってどれだけ心強かったか。ここにも、インマヌエル(神我らと共にいます)が語られています。

2017年8月15日火曜日

「マカオからの葉書」

クレヨン牧師のミニエッセイ
 
「マカオからの葉書」
 
 毎週一回、必ず葉書が送られてきます。しかも国内からではなくマカオからのものです。マカオの友人が祈りや黙想の中で気がついたことを書いて送ってくれるのです。先週も木曜日に送られてきました。しかし、今回の葉書は読みつつ考え込んでしまいました。そこには次のように書いてありました。
 
 「変えようと思わないこと。変えようと思う欲望は愛の敵。自分を変えようと思わないこと。ありのままの彼らを愛すること。世界を変えようと思わないこと。それは神様の手の中にあるから。そして神様はそれを知っている。このことがわかれば不思議と変わってくるものだ。荷物に邪魔されないように人生の流れに身をゆだねること」
 
 まるで禅問答でしたが、神様がなさることを変える力など人間にはないということでしょう。神様だけでなく、人を変える力も持ち合わせてないのかもしれません。イエス様の時代でさえ、たくさんの人たちがイエス様のもとを去っていったのです。
 
 宣教とは神様や人を変えることではありません。今は福音の種まきでしかないのかもしれません。そのためになんでもやってみることです。創意工夫して、たとえそれが自分でむなしくなってきても、続けることしかないのです。種は神様の力で芽を出すのですから。

2017年8月14日月曜日

「わかっているから」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「わかっているから」

 ルカ 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。

「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。ありのままということが最近よく聞かれます。しかしこのありのままほど難しいものはありません。

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神様から遣わされます。そこに住むマリアにイエス様の誕生の予告をするためでした。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と挨拶し、イエス様を身ごもる予告をしました。マリアはこの出来事に恐れ、戸惑い、一度は拒否します。結婚前の女性が妊娠することでおこる試練、迫害、困難を乗り越えねばならなかったからです。最後には神様の言葉を信じ、その出来事を受け入れる決心をしました。

 テレビで小耳にはさんだ話です。ある女性の起業が成功し、これまでの人生についてインタビューしていました。話のなかで彼女は人生を振り返り、その試練と悩みが次々に起こったことを紹介していました。最終的には多額の借金をかかえ、夫と別れ、子ども3人を育てるために昼夜働かねばならない過酷な試練にあうのです。しかし彼女は「いまはこのように事業が成功した。すると、あの時の試練や苦しさはいまの成功のために必要なステップだった。必ず成功すると信じれば、いまの苦しみはそのためのステップなのです。そう考えている」と話していました。未来に起こることを信じることで、いまの苦しみを乗り越えることができるのだと思います。

 イエス様の母マリアは、天使のお告げに「何のことかと考え込んだ」とあります。これから起こる出来事の試練、いま自分おかれている状況への不安。たくさんの思い悩みがあったことでしょう。しかし母マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」とそれを信じ受け入れたのです。神様のみ子が誕生するという未来に起こる奇跡を信じたことで、この試練を乗り越えていきました。神様が必ず導いてくださる。この信仰が私たちに生きる勇気を与えてくれるのです。

2017年8月12日土曜日

きままな休日・大地の恵みポークももハム1本


中高生キャンプでは8キロのももハムを食べました。
何とも贅沢。熊本にある大地の恵みポークからです。
ドイツを学びポークハムを食べる。楽しい企画でした。

2017年8月11日金曜日

阿久根教会礼拝前

阿久根教会にはエアコンがあります。
涼しい中で礼拝ができますよ!

2017年8月8日火曜日

「冷や汗の講演会」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「冷や汗の講演会」
 
 母校「九州学院」で、宗教特別伝道週間の講師として招かれました。とても不思議な感じがしました。なにせまだ恩師の先生方がたくさんおられたからです。つまり、自分の高校生時代のことを知っておられる先生方の前で講演をしたのです。
 
 一日目は先生方への講演の日でした。初めは「なんとかなるさ」と思っていましたが、いざ講壇に立つと、足は震え、冷や汗はでてくる。しかも見渡せば皆が注目してくださっているけれど、目をあわせることができないのです。深呼吸して祈りました。「イエス様、私には話すことができません。あなたが語ってください。よろしく。アーメン」。すると自然に言葉が出てきました。この高校で聖書に出会ったこと。そしてキリストに導かれて教会生活を送ったこと。牧師として導かれたこと。証しができました。
 
 二十分の話が終わった時、「自分はなんて幸せな牧師だろうか。恩師の先生方にこのような形で感謝することができた」と思ったのです。ついでに「神様のクレヨン」を全員の先生にプレゼントすることができました。じつは国語の成績は悪かったのですが、国語を教えてくださった先生がすれ違いざまに「ニコッ」と微笑んでくださいました。まさに冷や汗の一瞬、しかし喜びの一瞬でした。

2017年8月7日月曜日

「別の道を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

 
「別の道を」

マタイ 2:12 「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 ある教会からの帰り道でのことでした。通り抜けようとス-パ-の信号へ差しかかったとき、地面を動いているものを発見しました。よく見るとカニが道路横断中だったのです。わりと大きなカニで体調十センチはあったでしょうか。しかも、車がどんどん通り過ぎるなかを、車に対してはさみを振り上げ威嚇していたのです。それを見ながら二つのことが頭に浮かびました。「一、自分を知らないということは恐ろしいことだな。二、ここに道路さえなかったら、カニは死なないでよかったろうに」ということです。そしていろいろと考えながら、自分を知らない人間ほど恐ろしいものはないという結論に達したのです。自分を知ること。これには自分を別な角度から見ることが求められます。第三者の視点、それがは別の視点であり、神様の視点だと思います。

イエス様の誕生のとき、東方から3人の博士がやってきます。彼らはまず、ヘロデの所に向かいます。ユダヤ人の王様が誕生することを星によって知らされていました。ヘロデはこれを聞いて不安を感じます。自分ではない王様が誕生するというのです。その後3人の博士はベツレヘムでキリストを拝みました。これがクリスマス礼拝です。ところがイエス様の誕生を知ったことで、ヘロデから命を狙われることになり、神様が示される別の道を通って自分たちの国に帰ることになりました。

 大都市の交差点には、目の不自由な方のための音の出る信号が設置されています。とくに車の流れが多く危ない所に設置されています。ところが、ある都市ではこの音がなるのは午後7時までと決まっているそうです。理由は周辺住民から、その音がうるさくて騒音だという苦情があったのだとか。市の管理、警察が話し合って午後7時までにしたというのです。「目の不自由なものは午後7時以降の外出はするなということですよ」と、それを利用している方が言っておられました。それが必要ない方にとっては騒音になる。しかしそれが必要な方々おられる。何かよい別の方法はないのかなと思いました。その方法を考えるのは「管理者、住民、目の不自由な方」の3者と、それを聞いた私たちなのだろうと思います。共に生きるという視点から考える時に、神様が別の方法を教えてくださるのではと思うのです。

 クリスマスの時、3人の博士は「別の道を通って・・・帰って行った」とあります。この別の道を示されたのは神様でした。ヘロデの難から逃れるための道です。私たちの人生、行き詰ったときでも必ず道が用意されています。その道を見いだすには、つねに神様のみ言葉に触れていないといけません。別の道も神様の道なのです。

2017年8月3日木曜日

「大切なことを見失う」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「大切なことを見失う」
 
 東京での会議のあと、新幹線に乗ってまず祈ります。この会議で神様は一体何を教えておられたかを確認するためです。次に「うなぎ弁当」を食べる。これが日課のようなものです。食事が終わると、次は何か本を読むことにしています。大抵、熱海までくると眠くなってきて京都まで寝ます。
 
 今回はアントニー・デ・メロさんの黙想説教集を読みました。その第一編の終わりに一つのたとえ話がありました。それは次のようなものです。
 
 「観光客の一団を乗せたバスが、目の覚めるような美しい田園地帯を走っている。湖、山、草原、川が次々と姿を現す。しかし、窓の日除けはおろされている。乗客たちは、バスの窓の向こうに何があるのか知ろうとしない。旅行中ずっと、誰が上席につくか、誰が拍手喝采を受けるか、だれがよく思われるか言い争ってゆく。旅が終わるまでずっと」。
 
 これはどんなたとえ話でしょうか。ある人にとっては人生のたとえ。ある人にとっては、いま忘れかけている信仰のたとえかもしれません。私はこのたとえを読んでとっさに窓の外をながめました。第一編に与えられた聖句はこれでした。
 
 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか」マタイ十六章二十六節

2017年8月2日水曜日

「向かい合う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「向かい合う」

マルコ  12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。

はじめて赴任した教会には幼稚園がありました。その園で飼っている鶏とアヒルは、注意深くみると私たちに素晴らしい警告を与えてくれました。それは人間も同じだなということです。

ある時、こんなことがありました。毎朝えさをあげるのですが、えさの桶は二つあります。二羽しかいませんので、一羽に一桶という計算になります。単純にはそうですが、この桶の取り合いが傑作なのです。ちゃんと同じにわけても、一つの桶を二羽が取り合いをするのです。しかも最初に口をつけたほうを、二羽で取り合いをしている。たまたま一羽が途中でもう一つに移れば、またそれを取り合いしているのです。これを眺めながらある意味でぞっとしました。他人のものはよくみえるということは、人間に限らないということです。そこに欲望・恨み・嫉妬の根源があるような気がします。自分は何を見ているか、何と向かい合っているかが問われます。

 イエス様の時代には、神殿にラッパの形をした献金箱がおかれていました。人々はこのラッパに向かって多くの献金を投げ入れていたのでしょう。その中にわずかな献金を入れたやもめがいました。イエス様は、やもめを無視なさいませんでした。金額の大小ではなく、やもめの信仰に目をとめられています。投げ入れたか、入れたかは大きな違いです。イエス様は賽銭箱の向かいに座っておられ目をとめられたのです。

 いじめが原因で自殺した小学生のニュースがありました。いつ聞いても胸がつまります。同じ年頃の女の子をもつ親として痛みを覚えます。今回も学校の対応、教育委員会の在り方に疑問をもちました。PTA会長をやっていた時と同じ疑問です。なぜ向かい合うことができないのかなと。ある時、市PTA連絡協議会で中学校のPTA会長さんと席が同じになりました。その方が、なぜPTA会長をしているかを話してくださったのです。彼は「自分の娘は中2で妊娠し子どもを生みました。そこから地獄の日々を過ごしました。学校も先生も教育委員会も娘を助けてくれなかった。でも親である私はそこで娘と真剣に向かい合ったのです。その時、私一人が最後まで向かい合う決心をしたのです」と教えてくれました。

 イエス様は、賽銭箱の向かいに座っておられました。すべての人と向かい合っておられたのです。そこで1人の貧しいやもめと出会われました。イエス様が彼女の中に何をみたのか。それはすべてを神様に捧げる信仰だったのです。向かい合ってはじめてわかることがあります。

2017年8月1日火曜日

「大人の国に旅して」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「大人の国に旅して」
 
 ドイツはとても奇麗な国でした。はじめてのヨーロッパでしたが、「大人の国」なのだという感想を受けました。
 
 フランクフルトに着き、まず驚いたことは「入国審査」が簡単なことでした。チラっとパスポートを見せるだけなのです。そして駅。なんと改札には人が誰もいないし、改札さえないのです。つまり、自分の良心と責任で切符を買いなさいということでしょうか。ただ乗りなどするような人はいないよとでも言われているみたいです。すべてがそのような感じでした。バスに乗っても自己申告ですし、会議にはすべて、ビール、ワイン、ジュース、水と置いてあり、自分の責任において飲みなさいということでしょうか。飲み過ぎて酔っぱらう者などいないのでしょう。人として生きる上で何が大切なのか。神様を愛し、人を愛することが徹底しているような国に感じました。
 
 ところが、教会への礼拝出席は悪いのです。五千人入る礼拝堂でも三十人か四十人。地方の教会でよくて二十人。悪ければ五人という教会もありました。生活の全てがキリスト教化されてしまって、いつのまにか、もっとも大切なキリストの存在がなくなってしまっているのかもと感じました。今回のドイツへの旅で神様は何を教えてくださったのか。じっくりと考えているところです。