2017年6月30日金曜日

脇本海岸

礼拝の帰りにちょっと寄り道。
素晴らしい海でした。
心もほっこり、夏ですね~~~~

2017年6月29日木曜日

信頼して一歩

クレヨン牧師のミニエッセイ

信頼して一歩」
 
 坂村真民さんの詩集につぎのようなものがあります。
 
 すべてとどまると
 
 くさる
 
 このおそろしさを
 
 知ろう
 
 つねに前進
 
 つねに一歩
 
 空也は左足を出し
 
 一遍は右足を出している
 
 あの姿を
 
 拝してゆこう
 

 
 復活の主イエスに出会うためには、墓へ一歩近づかねばなりませんでした。女たちは不安で仕方なかったのに、一歩踏み出したのです。
 
 とどまってはいけない。どんなことがあっても、主イエスを信頼して一歩前進したい。キリスト者には、それしかないのです。

2017年6月28日水曜日

知恵~英知=財産

阿久根ルターくんの朝のみ言葉
「知恵~英知=財産」

箴言 24:3 家は知恵によって築かれ、英知によって固く立つ。

「顔のはなし」・・・ある国に勇猛な王様がいました。強いだけに体はたくましくその顔はたいへん恐ろしいものでした。一目見ただけででも震え上がるほどなので誰も近寄ったりできません。ましてや、お妃さきなんてとても見つかりません。さてその王様にある賢者が知恵をつけてくれました。「優しい顔のお面をつくり取り付けては・・・」そこで国一番のお面職人に命じ、ぴったりとした、しかも食事も出来、笑うことも出来、目を閉じることもできるお面を作らせました。王様は大喜びですぐにお妃さきがやってきました。一年たち王様は良心の傷みをおぼえるようになり、夜も寝られずついに愛するお妃に秘密を告白することにしました。鏡のまえに座りお面をはずそうとしたとき突然お面は粉々にくだけてしまいました。あわてた王様はこのまま死んでしまおうとしました。しかし鏡に映ったのはあのやさしいお面の顔だったのです。王様はその顔に合わせて生活しているうちにあの顔になってしまったのです。

箴言は「知恵」を人間に高価な財産をもたらすものと考えています。財産の形成にはこの知恵が必要で、知恵によって満たされることを高価な財産と言います。特に4節は「知識(知恵)は部屋を満たし、貴く喜ばしい財産となる」と言います。

たった一人で家を建てている大工さんに聞いた話です。「最近は家のまわりに玉砂利を敷く人が多くなった。これは昔からの知恵なのだが、その理由が情けないと思う」と。実はいまの人たちが玉砂利を敷くというのは、不法侵入者防止のためだというのです。塀とか壁とかが庶民の家になかった時代、人がやってきたということが分かるために玉砂利を敷いた。最近では不法侵入防止なのだと嘆いておられました。人が来たことを知るのか、人が入らないように警告するのか。人間の心の中の根本を見つめさせられます。昔の人たちの知恵というのはすごいなと思いつつ、それを私たちはどのように受け継ぐべきなのかを考えさせられました。何が知恵で、何が英知なのかです。

箴言は「家は知恵によって築かれ、英知によって固く立つ」と教えています。確かに知恵によって、様々な工夫がなされ、人が生きることにその知恵が直接かかわっています。しかし、知恵によって築かれても、それがそこに住む人間の英知へと発展しないならば、その知恵は力をなくします。神様から与えられる知恵は、信仰によって英知に変えられ、人間にとって大切な基盤となっていくのです。それが本当の財産です。

2017年6月27日火曜日

存在を確かめて



クレヨン牧師のミニエッセイ
「存在を確かめて」
 
 最近、我が家では次女がお父さんといっしょに寝ることになっています。ちいさい子供と寝るのは、いろいろと世話もありますが、とっても幸せな気分になります。その暖かさがホッとさせてくれるのです。
 
 このごろよく、次女の足が夜中にぶつかってくるのに気がつきました。それも明け方によくあります。その足は脇腹をくすぐるように触ってくるのです。一体何をしているのでしょうか。実は、どうもお父さんが「いるか」「いないか」を確かめているみたいなのです。もし触らなかったら起きて泣き出してしまいます。
 
 私たちも安心して生活をしていても、ふと神様の存在を確かめてみたくなることがあります。ちょうど寝ていても、「いるか」「いないか」と足で触って確かめてみるようなものです。しかし、神様はいつでもそこに居て下さる。仕事のためにいないとか、ほかの部屋に寝ているとかありません。
 
 私たちにとって神様はいつでも共にある存在です。しかし、忘れてしまう存在でもあります。つねに、忘れず生きていくことができるでしょうか。もちろんできます。私たちは聖書のなかで、御言葉を通していつも出会っているのです。そして祈りを通して会話もしています。

2017年6月26日月曜日

死ぬことはない

阿久根ルターくんの朝のみ言葉

「死ぬことはない」

箴言 23:13 若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。

バナナには種があるのでしょうか。食べながらふと思いました。実は今のバナナには種がないのです。「うそつけ、真ん中に黒い点があるじゃないか」といわれそうですが、それなら植えて出てくるか試してください。あれは種ではなく種の名残なのです。人間が食べやすいように品種改良され、種なしになってしまったのだそうです。それでは新しいバナナはどうやってできるのか。実がなったあと、根本からばっさり切ってしまうと新しい株がでてくるというわけです。人間の発見も素晴らしいですが、自然の力には驚かされます。ばっさり切られてもまた生えてくる。倒れても立ち上がる。その背後にある力を感じます。

箴言23章も若者に対する教育のことが書かれてあります。私の子ども時代は、先生の体罰というのをよく見かけました。納得できるものもありましたが、そうでないものもあったなと思います。納得できるものであれば心の傷は残りません。しかし、納得できない体罰が子どもの心をいかに傷つけるかを教えられます。

プロ野球楽天イーグルスの監督が星野仙一氏になり、とても興味深くみていました。初期のニュースでは、「緩慢なプレーには鉄拳制裁も辞さない」と書かれていました。星野監督といえば、鉄拳というイメージがあり怖いという印象です。しかし、その内容をきいてみると、プロの勝負師としての考え方があるのでしょう。「緩慢なプレーは許さない」という一言に、何のために野球をしているのかを問うておられるのかなと思います。楽天イーグルスがどうなるか、なんと日本一になったというからすごいと思わざるをえません。今年は苦しんでいるようですが。

箴言は「若者を諭すのを控えてはならない」といいます。いまの社会では「いってもしょうがない」という感じで諭しを控えることも多いようです。逆ギレというものもありますから、若者を諭すのには勇気がいることかもしれません。しかし何のために「諭す」のか。それは、若者自身の人生のためであり、神様が彼を導こうとされているからです。「鞭打っても、死ぬことはない」という表現は、箴言の時代には若者を諭すときの鞭打ちは普通のことだったのかもしれません。体罰とは何かを一度真剣に考えてみなければなりません。

2017年6月24日土曜日

きままな休日・骨付きハム

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大地の恵みポークで骨付きハムを買ってきました。
なかなのボリュームです。味も抜群。これで1000円は安いですよね。
7月21日には「もも1本ハムCafé」を開催します。そのための試食でもありましたが。大満足でした。

2017年6月23日金曜日

阿久根・大江教会合同礼拝

阿久根教会・大江教会合同礼拝
6月18日に合同礼拝が行われました。
鹿児島と熊本の教会が一つになりました。
 


2017年6月22日木曜日

誤り迷いが大切

クレヨン牧師のミニエッセイ

「誤り迷いが大切」
 
 「この頃、数学教育で、なにより憂慮されることは、解答が誤りとわかると、すぐに全部を消してしまう生徒が増えたことだ」と、数学者の森毅さんが指摘されていました。
 
 私たちは人生の中で誤ることは多々あります。また、わからなく迷うことも多々あります。大切なことは、どこで誤ったか、何に迷ったかを知ることです。誤りや迷いを全部消してしまっては、それを知ることはできないという意味でしょう。
 
 私たちの信仰生活でも同じだといえます。自分はどこで迷ったか、誤ったかをはっきり知らせてくれるのが「聖書(みことば)」です。自分の失敗を知れば知るほど、神様の愛がよくわかります。自分の愚かさを示されれば示されるほど十字架の愛がわかります。しかし、それを隠そうとしたとき。すでに神様から離れているのです。

2017年6月21日水曜日

道の初めに

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「道の初めに」

箴言 22:6 若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。

ティリヒという神学者が、「教育の神学」の中で現代の学校の問題として次のように述べています。「学校教育の問題は、いままで子供が問うてもいないことに、答えを与えねばならないことである」。この学校とは教会学校であり、宗教教育であると言えます。つまり、神とは何か、キリストとは誰か、愛とは何か、生きるとは、信仰とは、といった問いを子供たちが持つまえに答えを上から下へ与えているということです。問いを持つまえに答えを押しつける。問うことをさせない。答えが答えとして受け取られるには、問いを問うことが必要だといっています。教育って本当に難しいです。

箴言は教育の書とも言われています。若者が道に迷わないように、また子どもたちが確実な道を歩むようにと願う格言も多いです。とくに教育に関しては、曲がった道を歩むのは、道が曲がっているのではなく、曲がった心の者が教えるから道が曲がると教えているようです。

日本人としてはじめて中国シンクロチームのコーチとなった、井村雅代さんの本を読みました。中国チームは北京オリンピックで、中国としてはじめて銅メダルを獲得しました。井村コーチは日本人としてはじめて外国のチームのコーチと成られた方です。彼女がまず中国チームの若者たちに教えたのは、「挨拶」「愛想笑い」「ありがとう」の3つだそうです。「シンクロ協議は水の中だけの協議ではなく、会場に入って出るまでのすべてが採点の対象である」と書いてありました。いつも見られているという認識と、空気を見方につけなければ世界に通用しないというのです。中国チームにはお国柄でしょうか「愛想笑い」というものがなく、挨拶やありがとうの言葉も少なかったといいます。だからこそ、選手と言う前に人としての問題から教育したのだと。北京オリンピックで銅メダルをとった中国チームの背景が少しわかりました。教育はじめに何を置くかだったのだと思います。

箴言は「若者を歩むべき道の初めに教育せよ」と言います。道の初めにどんな教育を受けるかは大切です。若者は年老いてもその道を歩いていかねばならないからです。若者は道の初めに誰と出会うか、何を聞くか、そして何を信じるか。教会学校や、教会教育にあたるものは、すべては神様のみ言葉に立って行うということを求められます。そこに若者を導く知恵があるのです。

2017年6月20日火曜日

結婚式の恵み

クレヨン牧師のミニエッセイ
「結婚式の恵」
 
 結婚式の献金を「宣教基金」とすることを決めてから、結婚式の申込の多さにビックリしています。「宣教基金」をどのように使用するのか祈りを結集し、神様の御心を聞くことが大切だと身が引き締まります。
 
 とはいっても、結婚式自体が宣教ですから、結婚式が御言葉に立つものとなる祈りも必要です。つまり、どれだけ主イエス・キリストにあって誠実にかかわることができるかです。
 
 神様はそんな私たちに、素晴らしい結婚式を与えてくださっています。二人だけの結婚式がありました。神様の前で約束を真剣に求めている二人でした。そして今回、またまた素晴らしい結婚式を三月に与えてくださったのです。それは二組同時結婚式です。兄妹の二組のカップルが結婚式を同時にされることになりました。
 
 新郎であるお兄さんは、もう何回も教会にこられました。そして、いつも何か言い出そうとして帰られるのでした。そして、やっと言われたことは、「私は十人兄弟の九番目です。一番下は妹がいます。もう結婚して一年になるのですが、事情で式を挙げてません。私たちの結婚式にいっしょにできないでしょうか」でした。感動いたしました。そして神様に感謝しました。しかももっと感動したのは、それを願われたのは新郎さんではなく、新婦さんだったのです。
 
 結婚式は宣教です。そこから私たちも神様の恵みをいただくのです。
 

2017年6月19日月曜日

何か一つを

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「何かを一つ」

箴言 20:24 人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。

死刑囚の記録だけを集めた本があります。裁判で死刑の判決をうけ、絞首台の階段を上るまでの、ある者にとっては長い、またある者にとっては短い「待っている」時間の記録です。その中に一人の男性の記録がありました。その男性はある日突然、花を生けはじめたのでした。といっても、単に粗末な花瓶に一輪の花を生けはじめたのです。しかしそれ以来、死刑囚特有の無気力な凶暴さからうってかわって、見違えるほどに元気になったそうです。死刑の直前、その訳を尋ねた看守に、その男性は言いました。「仕事がある。明日起きたら花ビンの水を取り変えるという仕事がある。夜寝るとき私はそう思いました。だから少なくとも明日は生きていける」と。何か1歩でも歩むことができるということは希望を生むのだと思います。

箴言の20章には、心の中にある深い知恵について語る箇所があります。5節「思い計らいは人の心の中の深い水」という表現で出てきます。これは汲みだすことが難しいということです。心の中にある隠された計画は、他人にはよくわからない。しかし、賢者はそれを見つけ出すことができる。その賢者とは神様と共に歩む者だというのです。

あるスポーツのコーチが指導方法について書いていました。選手が壁にぶつかった時はどうするかということです。選手が全然うまくならないときがある。その時は「なんでうまくならないのだろう」と悩みます。そんな時にコーチは「でも今日はひとつだけ、何かを上手にして帰らそう」と思うのだそうです。そしたらいつかうまくいく。家が片付かなくて途方に暮れる時、パニックになってもしょうがない。そんな時は何も考えずに、何かを一つ動かす。するといつかは片付くのだと。立ち止まるのではなく、一歩でもいいから前へ進むことだと言うのです。

箴言は「人の一歩一歩を定めるのは主である」といいます。人間はどこへ行くのか、自分の道についても理解してはいない。しかし、神様は人がどこへ行くかを知っておられるのです。またその一歩を定めるのも神様なのです。この神様に信頼し、勇気をもって一歩踏み出す時に新しい道が開けてくるのだと言えます。行き詰った状況の中でそれを解決するには、神様を信頼して今日一歩を踏み出すことなのです。

2017年6月17日土曜日

気ままな休日・母のオムレツ

これは大好物
母が作ってくれる、ポテトサラダが包んである
オムレツです。かなら美味しいです。

2017年6月16日金曜日

納骨堂にステンド

鹿児島教会納骨堂に
ステンドグラスを入れました。
皆さんの休むところは気持ちよく。
換気扇も取り付けて、なかなかオシャレです。

2017年6月15日木曜日

宣教の力を

クレヨン牧師のミニエッセイ

「宣教の力を信じる」
 
 神様がこの教会に託されている「宣教の力」は、いったいどのくらいあるのでしょうか。私としては底知れぬものがあると実感しています。ところが、まだまだ教会の礼拝は空席の方が多い。なぜでしょうか。その責任は神様にあるのでしょうか。神様の「宣教の力」を信じ、全てを捧げることのできない私たちに責任はあるのです。
 
 「できることしかできない」との言葉を良く聞きます。しかし、神様の宣教の前では、その言葉は通用しません。できないことをも要求されるのが神様なのです。つまり、神様ができると言われることを、私たちができないとはいえないのです。
 
 神様は私たちの信仰によって、底知れぬ「宣教の力」を与えておられます。この教会に遣わされて七年目がやってきました。牧師としてこの六年間「宣教の力」をどれほど信じてきたかを振り返ったとき、信じてなかったことを告白せねばなりません。
 
 この教会にとって今の状態は、あの放蕩息子のように神様の財産を食いつぶしているようなものかもしれません。一人一人の信徒・牧師が神様の十字架の前にひれ伏して、赦しをいただかねばなりません。今年「宣教する教会」は、十字架の前にひれ伏すことから始めます。(

2017年6月14日水曜日

主の御旨が

阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
「主の御旨のみが」

箴言 19:21 人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。

夏の予定でパニックになったことがあります。なんでもOK,OKと引き受けてしまい、後で予定をみてでビックリ。なんとその年の8月は、教会にいる時間は5日しかなかったのです。たとえば、「ミッション系高校の修養会」の講師。それが終わって「インドネシアのバタック教会宣教九十年大会」でインドネシアへ。「名古屋地区伝道修養会」の講師として招かれ。それだけならまだしも、AVACO紙芝居の脚本の執筆、児童説教集「おはなしがいっぱい」の執筆、全国聖書日課執筆と締切がすべて8月でした。計画性のなさからこうなったのかと反省しました。

箴言19章も知恵の薦めが続きます。格言集ですから様々な角度からの教えが示されています。この章の冒頭では「唇の曲がった愚か者」という言葉があります。これは語る言葉が曲がっているということで、言葉の中に嘘があるということです。つまり言葉の中に嘘があるのは、誠実でないということです。神様に対して、隣人に対して誠実さをもって、人は生きて行くべきだと言うのです。

ある時「計画は計画であって、その通り実行されるかは別の問題」と言われました。それを聞いたときは「それじゃ計画しても意味がない」と思いました。またある人からは「無計画という計画もある」と聞いたことがあります。それは不誠実だろうと感じました。完璧な計画を作った所で、それが実現するかどうかは誰にもわからないということは理解できます。すべての計画が狂うときや、うまくいかない時があります。そんな時に教えられることは「いまは神様のなさることをみていよう」ということです。

箴言は「人の心には多くの計らいがある」といいます。誰でも多くの計画をもっています。それは人生計画であったり、家族の生き方計画であったり。また金銭の計画、旅行の計画などもあります。もちろん教会も計画をもっています。そこで箴言があえて教えているのは「主の御旨のみが実現する」ということです。自分勝手な計画をいくら立てても実現はしません。それが主の御旨にかなっているかどうかです。どうすれば主の御旨がわかるか。祈りつつ神様のなさることを見ているしかないかもしれません。しかし、主の御旨にかなうことは必ず実現するのです。

2017年6月12日月曜日

口答え

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「口答え」

箴言 18:13 聞き従う前に口答えをする者、無知と恥は彼のため。

久し振りにデパ-トへいき、多くの人がごった返していました。このような時は迷子が多いとみえて、ある売り場の方が二才位の男の子に話しかけておられました。その会話を聞きながら、さまざまな事を連想しました。さてその会話ですが、売り子さんが「あなたの名前は?」と聞くと、子供はきまって「ウルトラマン」としか言いません。その子供は何を聞いても「ウルトラマン」としか言えなかったのです。困った売り子さんは、「お父さんの名前は?」と聞きました。でもやっぱり「ウルトラマン」なのです。それでは「お母さんの名前は?」と聞いたところすぐに答えました。「うるさい」。多分この子供はお母さんに、ガミガミと言われているのでしょうか。お母さんを一言でいうと「うるさい」に集約できるのは、さみしいことですが。

箴言18章は、神様から離反する者に対する忠告からはじまります。神様から離反するとは、自己中心的で周囲から離れて行く者のことです。自己中心的な者、利己的な者が人々の間に争いをもたらすと教えます。集団生活において、自己中心、利己的ということは、神様から離反を意味しています。そこから「口答え」ということが述べられているのです。

ネットで「口答え」を検索していたら次のような記事がありました。「不適切なクレーム対応にお客様がキレた」というものです。それは「野菜が生だ」とクレームを言う客に「いつもこうです」と返答したら、「この店の教育はなってない」と店長を呼びつけて強く叱ったと言う話です。この場合、賢い選択は「指摘のあった料理を作りなおす」ということで、「野菜が生だと」と言っている客は「もっと火を通したものが食べたい」と思っているのだと考える。そしてそれを提供する。ところが、この記事にネットで火がついて「ごね得ニッポン」「過剰サービスに慣れ過ぎ。その負担は自分らバイトにまわってくる」など釈然としない書き込みが多く寄せられたというのです。そちらも一理あるなと思ってしまいました。

箴言は「聞き従う前に口答えをする者」と言っています。まずはその人が何をいっているのか「聞くこと」が大切だと教えています。そして「従う」ということ。この「従う」を間違えてはいけないと思います。神様に従って聞くということが知恵なのです。その視点からみれば、箴言の言葉は神様に聞き従う前にと読めないでしょうか。

2017年6月9日金曜日

鹿児島教会が変わる

鹿児島教会礼拝堂が変わります。
聖餐卓を設置ました。
さらに聖壇を整えております。
ぜひお越しください。

2017年6月8日木曜日

いなくては

クレヨン牧師のミニエッセイ

「いなくては・・・」
 
 人間はだいたい五種類に分けられるのだそうです。なんでもこの分け方をしたのはお釈迦さんだと伝えられています。さてその五種類とは・・・。
 
 一、いなくてはいけない人
 
 二、いた方がいい人
 
 三、いても、いなくてもいい人
 
 四、いない方がいい人
 
 五、死んだ方がいい人
 
 なんと過酷な分け方だろうかと思います。これはあくまでも自分はどうあるかを振り返るためのものです。あの人はどうかと考えるならば、それは本意ではありません。
 
 さて、主イエスにとって、あなたはどんな人ですか。たぶん、主イエスによっては、「一、いなくてはいけない人」しかないと言えます。あなたのために十字架にかかってくださったのですから。教会にとっても「一」しかありません。しかし、自分でそれを知ることが大切なのです。主イエスはいつでもあなたのことを待っておられるのです。

2017年6月7日水曜日

水一滴から


阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
「水の一滴から」

箴言 17:14 いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。

花 八木重吉  花はなぜうつくしいか  ひとすじの気持で咲いているからだ

暑い日がつづいています。夏だから仕方のないことですが、やっぱり早く涼しくなって欲しいと思います。そんなとき、牧師館の横にある日々草が太陽にむかって咲いている姿をみて、「ひとすじ」の気持が伝わってきました。夏の予定も先が見え、秋へとすすんでまいります。秋にはどんな花が、「ひとすじ」の気持で咲いてくれるか楽しみです。またそのような花をこの世に造ってくださった神様に感謝する時にしたいと思います。 神様が造られたものは、「ひとすじ」の時が美しいのです。ささやかな感謝から今日もスタートしたいと思います。

箴言の記述法には「比較の詞」が多くあります。2つを並べて比較させ、どちらを選ぶのかを提示しているようです。この「選び」とうのは、聖書のテーマでもあります。新約聖書の中にイエス様の有名な言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ1516)。選びとは神様の出来事でもあります。箴言では、神様の御心に従ってどちらを選ぶのかを問われているようです。

小学生の頃「川の源流を探る旅」に参加したことがあります。朝5時に河口である海に集まり、車や徒歩で川を遡っていくのです。大きかった川が少しずつ小さくなり、小川になっていくがとても不思議でした。最終的には山の奥にある、水が岩から滴り落ちるところまでいきました。その時に、先生が河口の写真をみせて「大きな川もこの一滴にはじまる」ということを教えてくださいました。いまでも鮮明に覚えている出来事の一つです。

箴言は「いさかいの始めは水の漏り始め」と教えています。この漏り始めも一滴からです。わずかなことが大きな事へと発展していきます。どとすると、始めの水漏りの一滴に心をくばることを教えているのです。先人たちの知恵というのは、歴史をとおして長く伝えられていくものだと思います。

2017年6月6日火曜日

いなくては

クレヨン牧師の実のエッセイ

「いなくては・・・」
 
 人間はだいたい五種類に分けられるのだそうです。なんでもこの分け方をしたのはお釈迦さんだと伝えられています。さてその五種類とは・・・。
 
 一、いなくてはいけない人
 
 二、いた方がいい人
 
 三、いても、いなくてもいい人
 
 四、いない方がいい人
 
 五、死んだ方がいい人
 
 なんと過酷な分け方だろうかと思います。これはあくまでも自分はどうあるかを振り返るためのものです。あの人はどうかと考えるならば、それは本意ではありません。
 
 さて、主イエスにとって、あなたはどんな人ですか。たぶん、主イエスによっては、「一、いなくてはいけない人」しかないと言えます。あなたのために十字架にかかってくださったのですから。教会にとっても「一」しかありません。しかし、自分でそれを知ることが大切なのです。主イエスはいつでもあなたのことを待っておられるのです。

2017年6月5日月曜日

毅然無礼

阿久根ルター君の朝のみ言葉

慇懃無礼と応答」

箴言 15:1 柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。

「慇懃無礼」という言葉があります。表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を見下し馬鹿にしていること。またはそういう行為と国語辞典にはかいてありました。ただこの言葉の本当の意味は何かを考えています。大企業などがクレーマーに対して謝罪を行う場合、行き過ぎてこのような状態に陥りやすいので注意が必要と言われます。また、個人の間ではプライドが高く尊大で自意識過剰な人間が、丁寧な口調や文体で他人に対し議論や謝罪を行う場合に、このような態度?が見られる場合があるとも。意図的に行うものと、無意識に行うものがおり、判断に苦しむ行為であるというのが正解のようです。人間関係によって、無礼になったり丁寧になったりするのでしょう。この言葉は関係の上になりたっているものです。

箴言15章はひきつづき生活の知恵、格言がかかれてあります。その中でも特徴的なことは3節です。「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる」と教えています。人間はつねに神様との関係の中で生きているというのです。神様との関係のなかで、人と人の関係もまた与えられています。

私たちの脳は、右脳と左脳とでは働きが違うといわれています。いわば分業をしているとか。左の大脳半球は言語脳といわれ、言葉を話したり、読み、書き、計算、分析などの担当です。これに対して右の大脳半球は感性脳といわれ、音楽や美術を鑑賞したり、直感のような感性の担当です。たとえば、ある同じ音楽を二人に聞かせる。一人は作曲家、一人はただの音楽好き。聞かせながら脳の断層写真をとると、作曲家は左脳に多く血液がながれ、ただの音楽好きは右脳に多くの血液が流れるのだそうです。曲を分析する作曲家とただ演奏に浸っている音楽好きの違いなのでしょう。信仰はどちらの担当でしょうか。実は右脳なのだそうです。つまり、悩み悲しみを理解するこころの優しさという感性が、信じることへの道を開いていくのでしょう。やっぱり信仰とは分析ではないのです。それを越えたところの感性に神様が働きかけてくださるのです。知的なところよりも大切なもの、そこに信仰の働きがある。その深いものを各自が与えられているのです。

箴言は「柔らかな応答は憤りを静め」と言っています。大切なことは「応答」ということです。言葉が慇懃無礼になるのは一方的だからです。「傷つける言葉は怒りをあおる」からもわかるように、そのような言葉は一方的なものなのです。イエス様は多くの人々と対話をされました。応答しておられます。言葉の中心に信仰をもって応答することが求められているのかもしれません。

2017年6月3日土曜日

きままな休日・石巻はらこ飯

被災地での支援活動のとき気になっていたお店「湖月亭」。
   そのご何度も石巻を訪れては、このお店の「はらこ飯」をいただいています。
   九州育ちの私にとって鮭はごちそう。しかもイクラまで。
   これが釜飯になっている。お刺身もついて安いんだから。
   それよりも、石巻の風土と人の温かさを感じながら食べるはらこ飯はいつだって最高なんです!
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2017年6月1日木曜日

張り紙に

クレヨン牧師のミニエッセイ

「貼り紙に教えられ」
 
 子どもを叱りながら、いつも心に思うことがあります。それは、「なんでこんなにイライラしているのだろう」ということです。普段なら許せることが許せない。止めよう止めなければと思いつつも、エスカレートしてくるのです。そんな時ほどイヤな嫌悪感に打ちのめされるのです。
 
 先週の金曜日でした。いつものように嫌悪感に落ち込む叱り方をしたので、礼拝堂で祈っていました。神様に懺悔をして家に帰りますと扉に手紙があってありました。皆さんはこれを読むことができますか。
 
 解説すると、「おとうさん、このおうちはおこったらはいらないでね」だと思います。私はこの貼り紙をみてなぜか涙がでてきました。ここは牧師館だった。ここは神様の家なんだと実感させられたのです。自分のイライラや、自分中心の怒りがどれだけ人を傷つけるかを教えていただきました。教会・牧師館は神様に聖別された場所です。同じようにみなさんのお宅も神様に聖別された場所です。そこを汚すために社会のいろいろな誘惑が襲ってきます。しかし、そこは聖霊の家なのです。その聖霊の働きがあるからこそ、私たちは守られて生きていくのです。