2017年5月31日水曜日

どのフレームで

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「どのフレームで見るか」

箴言14:4 牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力。

うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ    

 良寛晩年の良寛が死をまえに詠んだもの(正確にはひとのうた)であるといわれています。最も当時の良寛のこころを現わしているものだといえます。死をまえにして、自分の良いところも悪いところもさらけだして生きてきた、思い残すことはなにもないということです。私たちは良いところも悪いところも同様にもっています。しかしどうしても、良いところだけしかみなかったり、また悪いところは隠そうとしたり、気づかないようにしています。神様は私たちのどこを見ておられるのでしょうか。きっと両方だと思います。良いところも悪いところも、私たち自身のすべてを見てゆるし、しかもそんな私たち一人一人を大切に思っておられるのです。うらも、おもても、神様にとってみれば一人の愛すべき子供です。だからこそありのままで救われるのです。

箴言144節には農耕に関した格言がでてきます。旧約聖書では王国時代の初期の頃に、牛による農作業がその生産力をあげています。今日の格言は、そのような時代の中で作られています。自分たちの生活の中で、どこに自分の視点をおくかということです。どちらに視点をおいても根本の出来事はかわらないが、視点をかえることで受け取り方は正反対になってしまいます。

心理療法の中に「リフレーミング」というものがあります。枠組みをかえてみるということです。その中に海外に住む一人の婦人の話がありました。彼女は神経質で綺麗好きのため、部屋が汚れるのを極端に嫌っていました。とくに部屋のカーペットが汚れるのが、彼女にとって大変な苦痛でした。またそのことで彼女は精神を病む結果にもつながりました。ある時、医者から「リフレーミング」の話をききます。それはカーペットが汚れるのではなく、人がそれだけ多く歩いているから汚れると見方を変えることでした。人がそこに住んで交わりがあるということへと見方を変えさせられたのです。それは彼女にとって素晴らしい発見となり、その後元気を回復していったというのです。

箴言は「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力」と教えています。ここでも見方を変えることを教えられます。このように考えると、人生における試練や苦しみも、実は神様に出会うためのものであると考えることができます。いま自分に起こっていることを神様の視点というフレームで見る時、いったいどのようにみえてくるのでしょうか。神様の視点は愛というフレームでみるということです。

2017年5月30日火曜日

戒語

クレヨン牧師のミニエッセイ

「戒語としてのイエス様」
 
 「良寛は己に厳しくには優しかった。不機嫌な顔を見せたことがなく、いつも優しい微笑みを欠かさなかった」と、ある本で読みました。実を言えば、私は良寛さんと一休さんが大好きです。このような僧侶にはなれそうもありませんが、どれだけ近づけるかが私の課題でもあります。
 
 さてその良寛さんには「戒語」といわれるものがあります。ひそかに自分で戒めとして作り、常々自分に言い聞かせていたそうです。紙に書くのも恥ずかしいと、囲暖炉の灰の上に書いてはそれをながめ、消してはまた書いていたそうです。その「戒語」はたくさんありますが、少し紹介いたします。
 
 一、言葉の多き
 
 一、口の早さ
 
 一、問わず語り
 
 一、さし出口
 
 一、人のもの言いきらぬうちにものを言う
 
 一、よく心得ぬことを人に教える
 
 一、人の話の邪魔をする
 
 一、親切らしくものを言う
 
 一、たやすく約束をする
 
 良寛はどれもこれも自分の姿だと言います。私たちはどうでしょうか。しかし、私たちには「戒語」としての主イエスがおられます。その主イエスは戒めだけでなく、そこから救いも問いかけて下さるのです。

2017年5月29日月曜日

誰と共に歩く

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「誰と共に歩くの」

箴言 13:20 知恵ある者と共に歩けば知恵を得、愚か者と交われば災いに遭う。

エクササイズ本の中でメトカーフという人が、「生身の人間であれバーチャルなものであれ、サポートしてくれる存在を持つことが成功の秘訣だ」と書いています。彼は、「自分自身の力だけで減量できる人は10人に1人だが、仲間のサポートがあれば10人に7人は減量できるようになる」と説明していました。初めからペースを上げることはせず、プロのトレーナーに頼り、ブログや電子メールで仲間に成果を報告するように勧めています。誰かが共に歩んでくれること、その人がどのように共に歩むかが大切なのでしょう。

箴言の13章は教育に関する格言です。「子は父の諭によって知恵を得る」という言葉から始まります。実はこの文には動詞がないので、翻訳には少し無理があります。あえて「父」を動詞の「愛する」に変更して、「賢い息子は諭を愛する」と翻訳している注解書もありました。父がどんな存在として共にあるか、それは子に知恵を与える者であることを示しているように思えます。

女子パウロ会の本に『動物の祈り』というものがあります。そのなかに「カメの祈り」もあります。「神様。どうかちょっとお待ちを。今まいります。私のお荷物は背負っていかねばなりません。別に好きこのんで背負ってるわけではないのですが・。いいえ、背中にのったこの家に不満なわけではありません。けっこう役に立つのですから。けれども主よ。おわかりくださるでしょうが年中運んで歩くとなるとなかなか重いものなのです。私に与えてくださったこの二重の束縛、甲羅と心の二重のかせゆえにあなたに対して心をとざすことがないようにいつも祈りつづけさせてください。ア-メン」私たちはこれが自分の祈りだというものを持っています。それは自分の弱さかもしれません。しかしそれを聞いてくださる神様も同時に持っているのです。

箴言は「知恵ある者と共に歩けば知恵を得る」と教えています。私たちは共に歩むときに、自分の心地よい人と歩むことを選びます。しかし、自分に心地よいだけではいけないのです。自分のことを本当に愛し、支え、時には忠告してくれる人と共に歩むことが必要です。イエス様が共に歩んで下さるということを考えてみたいと思います。

2017年5月27日土曜日

きままな休日・ベルリンのカレー

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ベルリンで食べた料理。
   う~ん、チキンカレーでしょう。
   でもカレーでない味がした。クリーム煮なのか。
   それでも美味しいのは間違いない。
ドイツ料理って素朴?いや何と表現していいやら~

2017年5月25日木曜日

使命と生命

クレヨン牧師のミニエッセイ

「使命と生命」
 
 「心にしみる名僧・名言逸話集」の前書きに、次のようなことが
 
書かれてありました。
 
 「人間が生まれたのには何か使命があるのだろう。使命とは、この自分の命を使うことであり、生命とはこの自己の命を生かすことだと気がついた」。
 
 この言葉の前にいま立ち止まっています。神様からいただいたこの命を使うとは、どのようなことでしょうか。また、この命を生かすにはどうしたらよいでしょうか。使命と生命。もし与えられた命を自分のためだけに使うとしたら・・・。そうありたくないと思います。神様と隣人のために私の与えられた命を使うとき、やっぱり私の命は生かされるのだと言えます。
 
 あなたの命が生かされましたか。主イエスはご自分の命を、私たち罪人のために十字架の上でお使いになられました。それによって主イエスの命だけでなく、私たちも命も生かしてくださったのです。
 

2017年5月24日水曜日

正しい行動を

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「正しい行動をとる」

箴言 11:5 無垢な人の慈善は、彼の道をまっすぐにする。

ここ数年のタイガーマスク現象(「第1号」はクリスマスの朝、群馬県中央児童相談所(前橋市)に届いた。玄関前に、包装紙にくるまれたランドセル10個(計30万円相当)が積まれていた。「伊達直人」という差出人名を聞き、「タイガーマスクでは」と気づいた。それが全国にひろがった)をうけて、精神科医はネットニュースの中で次のようにコメントをしていました。「児童虐待などで子どもに同情している人や、誰かを喜ばせたいと思う人が多いのだろう。素直に行動に移せなかった人がヒーローの名を借り、行動に移せたのかもしれない。ただ、物を置いていくのは一方的。『できることはありますか』と声に出し、自ら動くことで感謝されればより大きな喜びは得られる」と。この現象、人と人が双方向にかかわる動きに発展するかとニュースは問いかけていました。

箴言11章の3節から6節までは「慈善」をテーマに語られます。その「慈善」といっしょに何度も出てくる言葉は「まっすぐ」というものです。聖書では「正しい人」と訳されていますが、これも「まっすぐにする」という言葉です。正しい人は共同体の期待に応えて正しい行動をとる者であり、誠実にそれを実行するのです。共同体の期待に応えることに慈善の意味があります。

ある仮設住宅で「おすそわけプロジェクト」を行いました。「ルーテルおすそわけ」が口コミで広がっていました。第1回目のときは20名位の被災者の方がこられたのですが、ある時7は開始1時間以上前にすでに200名の方が待っておられました。この時「大変なことになった」と思いました。品数が少ないと思ったからです。これではみんなにいきわたりません。それでも計画通り実行しました。やっぱり一つもとることができない人もおられました。申し訳ない気持ちになっている女性会の方々の所に一人のおばあさんがこられました。被災者の方で99歳だそうです。彼女も1時間待ってなにも受け取ることができませんでした。おばあさんは女性会の方々に優しく言われました。「あんたたちは悪くないよ。遠くから物資をもってきてくれたのだから。もらう方も悪い。みんなでわけあってもらえばいきわたる。ひとりがたくさんとったからだよ」と。

東日本大震災から三年半が過ぎました。ルーテル教会も支援活動をしました。被災地での支援部しい配布、心のケアなど。これもまた「できることはありますか」との問いかけからはじまったことでした。神様の導きのもとで「まっすぐ」に行動することは何かを教えられたできごとでした。祈りとみ言葉によって正しい行動は導かれるのです。

2017年5月23日火曜日

あなたの神に

クレヨン牧師のミニエッセイ
「あなたの神に聞け」

 マカオにある観音堂の「おみくじ」は、よくあたると言われています。私も今回の旅行でひいてみました。この「おみくじ」のやりかたは日本のものとは少し違います。まず、百本くらいの棒が入った筒を渡されます。それを観音様の前に出て振るのです。つまり自分が抜き出すのではなく、振っているうちに一本だけがピョンと飛び出てくるのです。ただし聞きたいことは一つのみです。不思議ですが、すぐにピョンと出るときと、なかなか出ないときがあります。中国の友達にいわせれば、観音様も考えておられるのだとか。
 
 さて、同行したクリスチャンの友達がこの「おみくじ」に挑戦しました。するとこれまた不思議にすぐにピョンと出てきたのです。観音様もすぐにおこたえくださったということです。ところがその「おみくじ」をみてびっくり。そこにそこに書かれてあったことは、「あなたには神様がいる。だからあなたの神様に聞きなさい」と。
 
 「あなたの神に聞け」。そのとおりです。私たちには祈りがあるのです。主イエスに聞くことができるのです。祈りましょう。私は主イエスのためにどんな働き手となれるでしょうかと。その祈りを主イエスは待っておられるのです。

2017年5月22日月曜日

思慮深く語る

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「思慮深く語る」

箴言 12:18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。

「一言の重み」という言葉を聞いたことがあります。人はその一言で傷つき、一言で癒されるといいます。それがどんな言葉かはその人の状況や感情によって違います。「ありがとう」で救われたり、「ばか」で傷ついたりします。その人は何気なく言葉を発しているのかもしれませんが、届いたときにそれはまったく別の言葉として届くこともあるのです。だとすると、言葉は軽率にだすのでなく、思慮深くださねばなりません。その思慮深さとは、相手を考えることです。

箴言1216節以下は、自分が賢いものと思っている愚者と、本当の賢者とはどのような人かを対象にして語られています。愚者の特徴はなにか。それは自分の「いらだち」や「不機嫌」をそのままストレートに出す者と言われます。賢者は思慮深く、しっかり考えて行動し、言葉を語るというのです。

クルマの免許取り立てのときは、なにかと冷や汗がでてきます。とくに車庫入れなどは、のろのろやっていたのでは後車から、プップップ-と怒られてしまいます。先日あるファミリ-レストランの駐車場での出来事です。ランチをとりながら外を眺めていたところ、若葉マ-クの御年輩の女性がやってきました。さあ大変です。どうなることかと見守っていますと、すぐに車庫入れが終ってしまったのです。そのご女性が上手だったのかというとそうでもありません。実は誘導係のおじさんの慣れた誘導と、その言葉がすぐに終らせたのです。「うまいですよ。そのちょうし。OK、OK。ばっちりです」とニコニコ。おまけに終ったときには大拍手。車の中では万歳をしておられました。私まで拍手をしてしまいました。神様はいつもそうなんだと思います。「それでいいよ。それでいいよ。問題ない。問題ない」と。

箴言は「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」と教えています。軽率と知恵の違いはどこにあるのでしょうか。軽率と言う場合は、相手のことなどまったく構わないで口にだしてしまうということです。言葉の一つ一つに心をこめ、愛情をこめ、気持をこめるならば、それはきっと人を癒す言葉になることでしょう。知恵ある人は思慮深い人だと思います。

2017年5月21日日曜日

阿久根教会訪問ツアー

大江教会・鹿児島教会・阿久根教会は宣教協力をしています。
そこでお互いを訪問して元気をいただくツアーをしております。
今回は阿久根教会!そしてA-Zです。

2017年5月20日土曜日

きままな休日・ウエストのかき揚げ

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   最近のうどん屋さんの特徴は、天ぷらが充実していること。
そして何よりかき揚げの大きさが半端ないこと。
   どこのかき揚げも大きいのです。
私は玉ねぎの天ぷらが大好物なので、かき揚げは大歓迎です。
   ウエストのかき揚げは昔から大きい。しかも海老がたっぷりはいいています。
これをそのまま食べるもよし、うどんに入れてもよし。
   美味しいものはなにやっても美味しいのです!

2017年5月19日金曜日

今年の目標達成

阿久根教会の礼拝16名でした。
今年の目標は12名礼拝の達成でしたから、
目標が達成できました。神様ありがとうございます。
これからも祈りつつ、次は20名を目指します!
皆さんもぜひ礼拝へ!お待ちしています。
毎週日曜日10:30~です。

2017年5月18日木曜日

お父さんが代わって

クレヨン牧師のミニエッセイ
「お父さんが変わって」
 
 子育ては本当に難しいと思います。親の気分で叱ったり、兄弟喧嘩の仲裁をどうするか。神様に「子育ての方法を教えてください」と祈る毎日です。
 
 先週、長女が次女をいまにも叩こうとしていました。わけを聞いてみると、次女が自分では知らないうちに長女の足を踏んだとのこと。どうしたらいいのか。長女はわざとやったと怒っている。次女は叩かれるのが恐くて泣きそうになっている。いままでなら、長女を怒っていることでしょう。しかし、瞬間に神様に祈ってみました。「神様、どうしたらよいでしょうか」と。すると瞬間に言葉がでてきました。なんと長女に「お父さんの足を踏みなさい。お父さんが変わって足を踏まれてあげるよ」とニコッと笑って相言いました。すると長女は弱い力で踏んでくれました。
 
 神様が教えてくださったことは、どんなことだったのでしょうか。それは十字架の意味かなと思いました。「神様、どうぞこの人の罪に変わって私の手の釘をもっと深くお打ち下さい」とのキリストの声が聞こえてきたような気がしました。
 
 私たちは意識しないで、神様に対して罪をおかしています。そのたびにキリストは身代わりとなって、私たちを守ってくださっているのです。このキリストのために働きたい。

2017年5月17日水曜日

判断基準は

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「判断基準は神様のみ言葉」

箴言 9:10 主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。

「ちょっといい話」を耳にしました。東京教会のT姉はお風呂の水をとっておかれ、その水で洗濯される。ここまでは誰でもされていることですが、まだまだ水は残ります。その水でトイレをも流されるとのこと。ここまで使用されているとは驚きなのですが、それをずっと水不足のまえから何十年もつづけておられる。震災のおこるずっと前からです。神様が生きるために与えて下さったものを大切に使わせていただく。その心が見える思いです。聖書には「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」(マルコ9:41)という御言葉があります。水のない所の話です。このことができるのは「ひと」の渇きをしっている人なのです。そしてまた、その渇きに対して神様の恵みを知る人なのです。それが知恵だといえます。

箴言は知恵とは何かを考えさせます。しかし、その知恵がどこからでてきたものかは重要です。今回の知恵も、女性として人格化された知恵が、未熟な若い男を招く話になっています。本当の知恵とは何か、それを見極めることは大切なことです。

小学校4年生の道徳の授業参観をしたことがあります。授業内容は「麻薬の危険から身を守る」ということでした。興味本位で手を出したりしないようにということでした。内容はどんな麻薬があるか、麻薬に犯されると人間はどうなっていくかなど、分かりやすいものでした。そして最後に先生が麻薬を使うことに多数決をとられたのです。なぜ麻薬は恐ろしいか、使用してはいけないかを話してきて最後は多数決で決定という授業に疑問をもちました。判断の基準はどこにあるのだろうと思ったのです。

箴言は「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」と教えています。私たちに与えられている知恵は神様からくるものです。その知恵の根拠は聖なる神様を知ることから始まり、それが判断基準となっていくのです。分別の初めもすべては神様から、そして神様とはその御言葉にあります。

2017年5月16日火曜日

扉はいつも

クレヨン牧師のミニエッセイ
「扉はいつも開かれて」
 
 礼拝堂にはいつも不思議なものが落ちています。落ちているというのは失礼なのですが、いろいろなものがそこで生命を終わらせているのです。
 
 ある時はトンボが聖卓の上で死んでいました。なんと幸せなトンボだろうと思いましたが、フラフラと入ってきて出るに出られず、そこで命を閉じたのかも知れません。その他、蝿、カトンボ、クモ、ダンゴムシ、カミキリムシ、そして昨日はテントウムシがそこにありました。
 
 この昆虫たちは、いったいどこからやってくるのでしょうか。たぶん礼拝堂の窓や、扉でしょう。するとそこが開かれていることになります。
 
 教会はいつでも開かれている。それは昆虫たちのためだけでなく、多くの人たちのために開かれているのです。最近では教会で教室が行われているときは、礼拝堂の扉を開け「十字架」に光をあてています。たったそれだけのことからでも、主は人々に語りかけてくださるのです。
 
 私たち一人一人もまた、開かれたキリスト者となりたい。

2017年5月15日月曜日

反省は???

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「反省はサルでもできる?」

箴言 8:5 浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。

ある信徒の方から、教育部長あてに一冊の本が送られてきました。その本とは「ビジネスマナー・ポイント集」です。手紙には、「この本、役に立つよ。牧師はマナーと常識が大切です」と書かれていました。実は、牧師の常識のなさ、マナー欠如が深刻な問題なのです。はじめのころは、宗教家たるもの《非常識のなかの常識》こそ大切だと思っていました。神様のみことばを伝えることはそれ自体で非常識の中にあると思っていたのです。ところが、信徒の皆さんがおっしゃる《常識》とはレベルが違うことに気がついたのです。皆さんが問題にされる《常識》とは、人が生きる上でのマナーの欠如ということなのです。そしてもっと言うなら「知恵」を働かせないということのようです。マナーも知恵の一部だと言われました。

箴言8章の教えは「知恵」についてです。知恵が人格をもって語りかける形をとり、知恵自体が自己紹介や自己推薦をしています。面白いことに知恵自身が、その働きと成果について紹介していのです。その中でも知恵は、神様が天地創造をされたときに、すでに神様のもとにあったと告げています。

ある遊園地で「反省ザル(猿)」という芸をやっていました。むかし日光猿軍団の中で披露され、テレビで人気がでた芸だったなと思い出しました。あのときのキャッチコピーは「反省はサルでもできる」というものでした。その当時は笑ってみていましたが、よく考える意味が深い言葉でした。形だけの反省なら猿まねにすぎないという意味がこめられていたかもと改めて思ったのです。あの芸をみていた人たちもその事に気がついて笑ってみていたのでしょう。それを自分にあてはめてみることもありました。

箴言は「愚か者は反省することを覚えよ」といいます。また他の箇所では「心の中の板に書き記せ」と命じています。大切なことは反省すること以上に、それを覚え、心の板に書き記すことです。何回も同じ間違いをするのは覚えていないからです。「反省はサルでもできる」が、心の板に書き記し、常に覚えることが反省することの本当の意味なのです。

2017年5月14日日曜日

母と女性に感謝する礼拝

大江教会では母の日礼拝が行われています。
母とすべての女性に感謝する礼拝です。
すでに天に召された母にも感謝をします。

2017年5月13日土曜日

きままな休日・鱗ごと焼く魚

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   博多の夜、居酒屋での料理。この魚はスズメダイ?の仲間かな。
   鱗のまま焼いて食べるのだそうです。うん、確かに鱗があって美味しいです。
   博多はおいしいものばかり、また食レポしなかやです。

2017年5月12日金曜日

宮崎教会に中村牧師赴任

宮崎教会に中村朝美牧師が赴任されました。
阿久根教会・鹿児島教会は宮崎教会と共同体の関係にあります。
これからよろしくお願いします。

2017年5月11日木曜日

神様の返事

クレヨン牧師のミニエッセイ
「神様の返事」
 
 小学生の句集「ちいさな一茶たち」には次のような句があります。
 
  秋の空やわらなそうな雲の城
 
 青い空を眺めていると、心が清々しくなってきます。最近じっと空を眺めたことがありますか。一度ゆっくり眺めてください。
 
  かあさんいない落葉がとんでいくばかり
 
 この気持ちは、痛いほどわかります。学校から帰っても誰もいない家。本当は学校であったことを一番に話したいのに。その寂しい気持ちを、落葉が飛んでいく音に心を合わせたのでしょうか。私も鍵っ子だったので共感してしまいました。
 
 私たちは返事のない辛さはよく知っています。しかし、自分の忙しさの中で返事をしないことがたくさんあるのです。ああここで言葉がほしい、「そうね」という一言だけでもいいのだけれど。それが帰ってこない辛さはいつまでも心に残るのです。
 
 神様はどうでしょうか。私たちの問いかけに必ず返事をしてくださいます。返事なないと思っているのは、返事を聞こうとしないからです。
 
 神様の返事「聖書」を開いてみましょう。

2017年5月10日水曜日

まじめにコツコツ

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「まじめにコツコツ」

箴言 7:2 戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。

お歳暮のコピ-に、「きのうと同じだからおいしい。きのうと違うからおいしい」というのがありました。ふたつの反する意見でも、並べてみるとどちらもそうだなと思えます。これを宣教的な視点で考えてみました。クリスマスは毎年必ずやってきます。同じクリスマスでも、その人の置かれている状況や場所によって違いがあるのです。「いつもと同じクリスマス」だからこそ幸せと言える人もあります。「いつもと違うクリスマス」だからこそ感動と言える人もあります。

ただ、どちらでもいいかなと思います。大切なことは、真面目にクリスマスをお祝いするという事だといえます。

箴言の7章には父の諭の中に、若者が女性に誘惑される場面がでてきます。聖書には「わたしが家の窓から、格子を通して外を眺めていると浅はかな者らが見えたが、中に一人、意志の弱そうな若者がいるのに気づいた」とあります。誘惑を受ける若者は、浅はかな者だけでなく、意志の弱い者であると忠告しています。

「父や母が教えてくれたこと」というテーマの本があります。人はそれぞれの家庭で、その家にあった教えをうけて成長します。その家庭が大切にしている教えでもあります。どの教えも「もっともだ」と思います。そのなかでもよく聞く教えは「まじめにコツコツと」というものです。人のすることはすべて神様が見ておられる。だから誤魔化さずに、「まじめにコツコツと生きること」だという教えです。この誰もみてないようでも、神様は見ておられるという教えは大切なものです。

箴言は、「わたしの教えを瞳のように守れ」といいます。瞳のようにとは、注意深く見つめることを意味し、目をそらさない、中心を見ぬくということでもあります。神様の教えをそのように守ることを教えています。み言葉から目をそらさずに、その教えをきちんと守っていくことこそ、まじめにコツコツと生きることなのです。その姿を、神様はいつも見ておられます。

2017年5月9日火曜日

手巻きの置時計

クレヨン牧師のミニエッセイ
「手巻きの置き時計」
 
 香港の友人が、中国製の置き時計をプレゼントしてくれました。とってもシンプルで気に入ってます。ところが一つだけ困ったことがあります。それはよく止まってしまう時計だからです。なぜならその時計は二日おきにネジをまく仕組みの時計だったのです。電池入りの時計になれている私にとっては驚きでした。
 
 さて、初めは「なんて不便な時計だろう」と思っていました。しかし、よく考えると「ただネジをまくだけなのに、それさえも面倒と思うようになったのか」と反省させられました。
 
 世の中はとての便利になりました。時計も電池を入れるだけで一年も二年も動くのです。しかも一分とかわらない正確さで動いています。そのような生活はとても快適です。しかし、電池や電気がなくなれば使用できない生活となるのです。
 
 手巻きの時計を眺めながら、毎日毎日、愛情を注いでネジをまくことの意義を教えられたようです。「今日も一日よろしく」と時計に声をかけてみると、一日の大切さを教えられるのです。
 
 聖書を読むことも、毎日心にネジをまくことと同じです。やっぱり、聖書というネジをまいていなければ、信仰も停止してしまうのでしょうね。

2017年5月8日月曜日

主の目から自分を見る

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「主の目から自分をみる」

箴言 6:16 主の憎まれるものが六つある。心からいとわれるものが七つある.

ヒンズ-教の聖典に、バ-ガヴァタ・プラ-ナというものがあります。そのなかに次のような話があります。あるとき、一羽のカラスが、くちばしに一片の肉をくわえて空を飛びました。二十羽のカラスがそれを追いかけて、意地悪く攻撃しました。するとついにカラスは肉片を落しました。追いかけていたカラスは、彼一羽を残し声をあげながら肉片を追って飛び去りました。一羽だけ残ったカラスは、「ここは平和になった。空全体がぼくのものだ」といいました。本当に大切なものは何かを見分けるのは、とても難しいものです。捨てることによって与えられることがあります。祈りの時の何かを捨てなければ本当の祈りにはならないかもしれません。

「祈りは神様との対話」とよくいわれます。一日の出来事を感謝しつつ、喜びの時には弾んで、うまくいかない時にはありのままに、悲しいときには泣きながら、対話できたらいいなと思います。対話は話しかけることから始まります。その話しかけをイエス様は、「父よ」(ルカ11:2)と呼びなさいと教えられました。「お父さん聞いて聞いて」と、子供がいいます。そのことをイエス様は教えてくださったのです。天の父は聞いてくださる神様です。そして聞きながら包み込んでくださるのです。「そうか、そうか、わかったよ」と。

箴言における「父の諭し」の七番目は、他人の保証人とならないようにと繰り返し警告しています。その後保証人になって約束し苦況に陥った場合は、たとえ友人であっても断固とした態度をとるようにと進めています。人間とはいかなるものであるかを教えているようです。

箴言は、主が憎まれるもの、いとわれるものとして次のものをあげています。「驕り高ぶる目」「うそをつく舌」「罪もない人の血を流す手」「悪だくみを耕す心」「悪事へと急いで走る足」「欺いて発言する者」「うそをつく証人」「兄弟の間にいさかいを起こさせる者」。人間の体の表現をとりながら、忠告しています。

自分自身を振り返ったとき、主の前に自分はどうであるかを吟味しなければなりません。箴言がいうようなことはしていないと言い切れるか。自分はそう思っていても、主の目からみればどうかを考えねばならないのです。常に自分を顧みながら、今日の日を過ごしてまいりましょう。

2017年5月6日土曜日

きままな休日・ニュールンベルガー

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ドイツのソーセージは最高に美味しい!しかも広場の屋台で食べるのが最高に美味しい!
   これが夜だったら片手にビールとなるのですが。いやいやソーセージだけで十分です。
   このソーセージはニュールンベルガーです。
それを炭火で焼いてパンにはさんでくれました。よい塩かげんですね。
   ルターはここの修道院にはいっています。この広場でソーセージを食べたでしょうか?

2017年5月5日金曜日

鹿児島教会の礼拝復活!

鹿児島教会の礼拝が少し復活してきました。
お庭にはお花が満開ですよ。

2017年5月4日木曜日

譲り合う美味しさ

クレヨン牧師のミニエッセイ

「譲り合うおいしさ」
 
 こんな話を読みました。
 
 日本のテレビで韓国の方が、カップラーメンのコマーシャルをみた。それは一つのカップラーメンを兄弟で奪い合っているものです。「これは僕のだ」「いや僕のだ」と。そして「それほどおいしいカップラーメン」という文字が映し出されるというものです。
 
 私たちはこの映像を何気なく見ています。そして、それほどおいしいのかと思います。ところがこれを見た韓国の方は、「なんとまずいカップラーメンだ」と言ったそうです。また、こんなコマーシャルだったら誰も買わないというのです。
 
 それでは韓国ではどんなコマーシャルになるのかといえば、まず兄弟が譲り合いをしている映像が写ります。「弟よ食べなさい」「いいえお兄さんが食べて下さい」と。そして、それほどおいしいカップラーメンとなるのだそうです。
 
 私たちは、奪い合って食べるほどおいしいと考えます。しかし、奪い合って自分のものにして食べても、後味は悪いのです。むしろ譲り合って一緒に食べた方が、たとえ少量でも格段においしいのではないでしょうか。
 
 主イエスは「互いに愛し合いなさい」と言われています。それは人生を楽しく生きる基本となることです。

2017年5月3日水曜日

まっすぐは神と共に

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「まっすぐは神と共に」

箴言 3:6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

「いらん世話(よけいなこと)をするな」と、あるボランティアが言われて落ち込んでいました。誰かに仕えたいという熱心さが、その言葉を聞いてよけいに彼を落ち込ませたのかもしれません。しかし熱心になるあまり「してあげる」という思いから抜け出せなくなっていたのも事実でしょう。パウロは「互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)と教えました。互いに仕えあうというのは、決して「してあげる」というだけの関係ではありません。神様が私たちを使ってくださり、私たちを通してその栄光を表わしてくださる。神様の道とはそのようなものだといえます。

今日から少し旧約聖書の箴言を読みながら朝礼拝を行ってまいります。この箴言は「わが子よ」という呼びかけにはじまります。子どもの徳育・教育の主要な責任は父親にあり、教育の場は家庭の母親が整えていました。この章も「~するな」「~せよ」が繰り返されます。しかし「なぜそれをするのか」の結論は、きちんとのべられています。その中心となるのが、神様を信頼し、共に歩むということです。

放浪の詩人「種田山頭火」の句に、「まっすぐ」という言葉入りものがいくつかあります。有名なものは「まっすぐな道でさみしい」という句です。同じような句で「分かれてきた道がまっすぐ」があります。山頭火は、行く道ときた道の両方に「まっすぐ」という表現をつかっています。この「まっすぐ」に放浪で生きた山頭火の人生の厳しさ、それと同時に「清々しさ」「清らかさ」を感じます。自分の人生を正直に生きようとする者の清らかさというのでしょうか。「まっすぐ」に生きることのできない自分との戦いも感じます。

箴言の作者は「常に主を覚えてあなたの道を歩け」と教えています。私たちは人生の道を歩くとき、自分ひとりで歩くことは大変困難です。導き手や、共に歩く人を必要とします。だからこそ「常に主を覚えて」が大切なのです。神様と共に歩くとき、その道はおのずと「まっすぐ」になります。迷わずに歩くためには、主のみ言葉と共に歩くことが必要なのです。

2017年5月2日火曜日

一番古い記憶

クレヨン牧師のミニエッセイ

「一番古い記憶」
 
 教会員のお宅に赤ちゃんが与えられました。母子ともに健康で、一週間で産院を退院されるという速さに驚いてしまいました。神様の祝福が赤ちゃんを迎えられた家に豊かにありますように祈ります。また、この赤ちゃんは、教会にとっても神様から与えられた宝です。ともに礼拝で祝福を受けるのを楽しみにしています。わが家の娘たちも、赤ちゃんを見て不思議そうにしていました。
 
 さて、自分が赤ちゃんだった頃を、どれくらい覚えているでしょうか。私などの記憶の一番古いものは、二歳の頃の阿蘇の風景です。なぜか横断歩道と、その向こうに見える阿蘇外輪山のその風景をはっきり覚えています。なぜはっきり覚えているか、それはたぶん人生で初めて横断歩道を一人で渡ったからではないでしょうか。なにか満足感とともに思い出されるのです。しかもその横断歩道の後ろには阿蘇山がある。たぶんどっしりとした安心感ではないかと思います。
 
 私たちはどこかで安心感と出会ってます。それは神様と出会った時だと言えます。あなたのことを包み込んでおられ、主イエスに気づいたときではないでしょうか。信仰の記憶をたどっていけば、かならず救われた喜びに到達します。その記憶をもう一度、呼び戻したいものです。

2017年5月1日月曜日

準備はできている


阿久根ルター君の朝のみ言葉

「準備はできている」

 ルカ 10:36 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか

あるとき、神学校の礼拝で学生が説教をすることになりました。はじめての説教だったこともあり、徹夜して準備し礼拝に参加しました。ところが説教壇に立ったとたん緊張し、何も話せなくなったのです。沈黙は5分位つづいたとき、ある神学校の教授が説教壇に立ち、代わって説教したそうです。その話をきいて「さすが神学校の先生ですね、よくできましたね」と思いました。ところが先生は「神学校の教授だから当然のことです。いつでも準備はできていますよ」と。

 有名な「よきサマリア人のたとえ」です。イエス様が律法の専門家に「何をしたら永遠の生命をいただけるか」という問いかけからはじまる会話の中で言われた言葉です。隣人を愛すること、では「わたしの隣人とは誰ですか」という質問をしたのです。隣人がわかったら愛することもできますと言いたかったのでしょうが、イエス様は「だれが隣人になったか」と違う角度から問われたのです。その中で、サマリア人はいかなる状況においても、傷つき倒れている人の隣人になることができる準備がしてあったことがわかります。

 まだ娘たちが幼稚園の頃、家内が教会の会議で留守をすることになりました。いわゆる3日主夫でした。初日は朝早く起きて、娘たちのお弁当作りから始めました。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事が待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。それら全部が実はこれほど神様から祝福されている仕事もないと確信しました。家族が平安のうちに出かけて、また帰ってくる。その拠点を守るのですから。これこそイエスに仕えることなのです。しかし、その中で常に心を準備しておくことの大切さを学びました。

 いつでも準備ができている。チームに人が欠けたときも、その人が帰ってくるまですぐに代わってできる体制。これが目標でもあります。そのためには、まず心の準備をしましょう。共に働いている仲間ですから、補い合える心を備えることが、この働きを託されているものの任務の一つです。