2017年3月14日火曜日

賛成でも反対でも

クレヨン牧師のミニエッセイ
「賛成でも反対でも」
 
 出久根達郎さんの本で、ぞっとするような話しを読みました。
 
 「いつのことだろう。ロシアでは政府を批判した本の著者には、その本を食べさせる刑罰を科した。毎日、医者立ち会いのもと一定時間、本を寸断してくわせた。発行部数を全部食べ終わった時、刑が終了したとして赦免した。ベストセラー作家は生涯くいつくせないわけである」というような話しです。もしも、「神様のクレヨン」が刑にふれて、このような刑罰をうけたとしたら、考えただけでゾッとしました。
 
 先週の宣教協議会に出席し、教会の会議のあり方を考えています。主イエスを中心とした会議にはみえなかったからです。話し合いという名の責め立てあいのようでした。私はそこにいたたまれず、帰ってきました。批判するなとはいいません。しかし、そのやり方に問題を感じます。宣教協議会は法廷闘争を準備した話し合いではないはずです。あくまでも、宣教の役に立つ話し合いのはずだと思うのです。
 
 批判するのは簡単なことです。しかし、そこからどうやって前向きに進めていくか、いや決断して中止するかなのです。ある信徒の方が次のようにいわれました。「賛成でも反対でも、それをどうやって宣教に役立たせるかという視点で考えたい」。もっともだと思います。