2017年2月20日月曜日

自分のものとする

阿久根ルター君の朝のみ言葉

ルカ 4:6 悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

「偉くなりたいは悪いことではない」という言葉を聴きました。確かに偉くなることはわるいことではないし、偉くなることを目指すのもいいです。しかし、何のために偉くなるのかです。すべてを自分の思い通りにできるから偉くなりたいでは、結局自分がつらくなると思います。偉くなったときには、偉くなったときにしかわからない責任が大きいことを知らないのです。イエス様は仕える偉さということを弟子たちに教えておられました。

本日の聖書は、「悪魔の誘惑」の箇所です。私たちには「人のパンだけで生きるものではない」というイエス様の言葉でも有名です。イエス様は40日40夜の断食の後、悪魔から誘惑を受けられます。しかし、そのすべてを神様のみ言葉によって退けられました。この箇所の誘惑には「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」というみ言葉で退けておられます。主なる神様を第一とするということです。「この国々の一切の権力と繁栄」を自分のものにする。これはとても魅力的です。自分で何でもできるからです。しかし、所詮すべてのものは神様から与えられた神様のものです。自分のものになったというのは錯覚だと気が付かねばなりません。

こんな話を読みました。日本のテレビで韓国の方が、カップラーメンのコマーシャルをみた。それは一つのカップラーメンを兄弟で奪い合っているものです。「これは僕のだ」「いや僕のだ」と。そして「それほどおいしいカップラーメン」という文字が映し出されるというものです。

 私たちはこの映像を何気なく見ています。そして、それほどおいしいのかと思います。ところがこれを見た韓国の方は、「なんとまずいカップラーメンだ」と言ったそうです。また、こんなコマーシャルだったら誰も買わないというのです。それでは韓国ではどんなコマーシャルになるのかといえば、まず兄弟が譲り合いをしている映像が写ります。「弟よ食べなさい」「いいえお兄さんが食べて下さい」と。そして、それほどおいしいカップラーメンとなるのだそうです。私たちは、奪い合って食べるほどおいしいと考えます。しかし、奪い合って自分のものにして食べても、後味は悪いのです。むしろ譲り合って一緒に食べた方が、たとえ少量でも格段においしいのではないでしょうか。

悪魔の誘惑は「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。」というものでした。私たちはついすべてのものを「自分のもの」としてしまう危険を持っています。その時は自分を神様としてしまっているときなのでしょう。「すべては神様のものである」という視点に立つとき、罪の誘惑を退けるポイントがあるように思います。