2017年12月15日金曜日

2017年12月14日木曜日

「ほしかった携帯電話」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ほしかった携帯電話」
 
 もう20年前の話です。
 「新任教職オリエンテーション」に講師として参加してきました。私に与えられたテーマは「教会のおかれた地域・その働き」というものでした。多くの教会から、徳山教会は「どうも楽しいらしい」と思われているみたいです。もちろん不思議と楽しいことがいっぱいあるのですが。
 
 さて、新任の牧師の研修会で、牧師には携帯電話が必要であると確信しました。というのも、牧師はいつ何が教会の皆さんに起こったとしても連絡がつかなければならない。羊飼いは二十四時間体制なのだと知らされたのです。また、牧師家族の安心のためでもあります。留守中の教会には何が起こるかわからないからです。また震災の救援活動を通して、その大切さを理解できました。
 
 それで、コツコツためたへそくりで、さっそく「携帯電話」を買いました。いえいえ本当は持ってみたかったのです。これでいつでも連絡がつくことになりました。教会、皆さん、そして家族との連絡が常にできます。この安心感なのでしょうね。携帯電話を嬉しそうに眺めていると、華美が大きな声で叫びました。「お父さん、またおもちゃ買ってズルーイ」。
 
 どうぞいつでもお電話ください。

2017年12月13日水曜日

「もう一人いる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「もう一人いる」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

この世の中けっこう「こうでなければならない」が多いように思えます。ある時、結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言っていますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「一応『父親』となっていますが、そうでなければならないことはありません」です。しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。そのお母さんに牧師として答えようと思い「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持ちや、願いや、愛が含まれていると思いますよ。その気持ちを大切にしてあげてください。娘さんはお母さんと共に歩きたいのですよ」と答えました。

マリアの受胎告知の場面で、天使ガブリエルはもう一人の存在を告げます。聖霊によって身ごもることのお告げにマリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか」と言いました。それに対して親類のエリサベトも同じように聖霊によって身ごもっていると言うのです。同じ境遇のものがもう一人いる。これは神様がマリアにされた大きな配慮かもしれません。バプテスマのヨハネの誕生と存在は、この出来事を支える影の力だと言えます。

PTA会長をしていた時、耳の不自由な子がいました。挨拶運動で毎朝挨拶しても返事もなく、通り過ぎていくだけでした。あとで彼女の事情を知りました。転校生だったので征服も違うし、かばんも違いました。いつも一人ぼっちだなと思っていたのです。しかし、その子には一人だけ友達がいました。その子がいたので毎日学校へ来ることができたし、元気に卒業していきました。そのたったひとりの友達が、次女でした。

共に歩んでくれる人がいる。これは大きな恵みです。クリスマスのメッセージで「インマヌエル」という言葉があります。これは「神は我々と共におられる」という意味です。クリスマスの本当の意味は、神が共にいてくださるということです。

2017年12月12日火曜日

「何をしてほしいのか」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「何をしてほしいのか」
 
 たまにですが、愛美は夜中に泣き出すことがあります。大抵は喉が渇いたので牛乳をほしがります。ところが、ごくたまに何で泣いているのかわからない時があります。きっと自分でもわかっていないのだと思いますが、これは親としては困ったものです。「これをしてほしい」というものと、それが言える相手があるのは幸せなことです。
 
 阪神大震災のお手伝いをさせていただいている時、毎日全壊した家の前に立っているお年寄りを見かけました。何をするでもなく、ただ毎日同じ場所に立って呆然としておられたのです。声をかけてみましたが、「何をどうしていいのか、さっぱりわからないのです」と言われました。
 
 主イエスは癒しを願う人に、「何をしてほしいのか」と言われました。私たちは何と言うでしょうか。本当に求めてくる者に、主イエスはその心の深みにある願いをいいなさいと言われるのです。どうでもよいこと、どうでもよくないことを判断して申し上げなければなりません。
 
 全壊した家の前に立つお年寄りは「家庭の匂いを返してほしい」といわれました。人間の生命線がそこにあるように思います。

2017年12月11日月曜日

「捨てる・拾う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「捨てる・拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

「違う角度からの人生観」という本に、《信じること》と題して書いてあります。

「ぼくは小さくて、野球もフットボールもまだできない。だって八歳になっていないんだもの。それに、ママは、ぼくが野球をはじめても速く走れないって言う。足のしゅじゅつをしたからね。でもぼくはママに言ったんだ。『速く走れなくてもかまわないんだ』って。だって、ぼくが球を打つと、ぜったい野球場の外に出ちゃうんだから・・・。走る必要がないんだ。あとは歩いてホームインするんだ」。私たちは、人生の中で困難に出会うと、どうしても後ろ向きに考えてしまいます。なにかのバチが当たったとか、もうだめだとか。しかし、本当にだめなのでしょうか。そのようなことにぶち当たったときに、どうしたら前向きに考えることができるでしょうか。それは《信じる》ことです。

徴税人レビの召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。

山頭火という俳人の句に「秋風の石を拾う」というのがあります。山頭火は、財産を捨て、家をすて、故郷を捨て、家族を捨てて放浪の旅をしながら悟りの境地に近づいていく俳人でした。しかし、捨てても、捨てても煩悩はすてきれずに苦しんでいたようです。そんな中でふと「石を拾う」ということに何かを見出したのです。この石というのはただの石ころのことです。人間は捨ててばかりでは生きていけない、拾うということでバランスをとっているのではないかなと思います。大切なことは「すべてを捨てて何を拾うか」です。

徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。しかし同時に信仰を拾った(与えられた)のです。一番確かなものを与えられたことになります。ということは、イエス様を拾ったということです。今週もまた、一番大切なものは何かをかんがえながら過ごしていきたいと思います。

2017年12月8日金曜日

アメリカから鹿児島教会へ

今年鹿児島教会の礼拝堂に、アメリカの姉妹教会からプレゼントされました。

2017年12月7日木曜日

「ストライキ金魚」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ストライキ金魚」
 
 子供の頃から大好きだったので、いまでも金魚を飼っています。といっても二匹しかいないのですが。いまの金魚が我が家では四代目になると思います。生死を繰り返しているのです。
 
 あるときは餌のやりすぎで水が腐ってしまいました。留守中にポンプが故障してしまったり、水温の調節がうまくいかなかったり。大抵は死んでしまったのですが、それでも金魚が大好きで飼いたくなるのです。
 
 いま我が家にいる金魚は、娘たちが選んだものです。だんだん大きくなってきました。餌の量も増える一方です。この金魚の名前は「ストライキ」と言います。なぜなら餌をあげないとすぐストライキを始めるからです。その方法はひっくり返って抗議をするのです。初めは苦しいのかなと思いましたが、「はやくくれ~。おなかがすいた~」とだだをこねているみたいなのです。
 
 人間はどうでしょうか。神様に対して同じことをしているのかもしれません。ストライキするほどの信仰があればよいのですが。

2017年12月6日水曜日

「非難されないように」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「非難されないように」

2コリ 8:20 わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。

出久根達郎さんの本で、ぞっとするような話しを読みました。

「いつのことだろう。ロシアでは政府を批判した本の著者には、その本を食べさせる刑罰を科した。毎日、医者立ち会いのもと一定時間、本を寸断してくわせた。発行部数を全部食べ終わった時、刑が終了したとして赦免した。ベストセラー作家は生涯くいつくせないわけである」というような話しです。もしも、自分の本が刑にふれて、このような刑罰をうけたとしたら、考えただけでゾッとしました。批判、非難はできるだけ避けたいと思います。

8章16節以下には、募金を呼び掛け、集金し、保管するという務めをしていたテトスのことが称賛されています。またテトスと同じように諸教会で選ばれた兄弟たちも同じです。パウロは、これらの人々は信用できる人柄であると述べています。しかし、パウロ自身に対しては彼の金銭的活動に身に覚えのない疑惑がもたれていたようです。そこで、テトスをはじめコリントでも良く知られた人物を立てて身の潔白をしめしたのでしょう。

ボランティア活動で募金をする場合、大切なことがいくつかあります。それは「何のために必要か」「いくら集まったか」「それをどのように使ったか」を誰にでもわかるように公表することです。この中の一つでも欠けると疑惑をもたれます。集まったお金を、自分たちのためにつかっているといった非難中傷を良く聞きます。せっかく素晴らしい活動なのにと思いますが、3つのうちのどれかが欠けているのです。簡単なことですが、公表することは信頼を生むことです。また第三者にみてもらうことはもっと確か信頼を生みます。監査というのはそういうものです。募金活動は信頼されることが一番大切です。

パウロは「だれからも非難されないようにしています」と言っています。パウロは、自給自足の立場をしっかり守ってきましたが、金銭的な問題で誤解されたようです。そこで募金活動においては非難されないことを心がけているのです。すべては公にされていること。それは神様が公にして下さっていることに感謝するということばで分かります。

2017年12月5日火曜日

「臨時学童保育を震災で」



クレヨン牧師のミニエッセイ

「臨時学童保育を震災で」
 
 阪神大震災の教会における救援活動に派遣されて、約一ヶ月西宮教会へ行ってまいりました。みなさんもテレビなどでご承知のとおり、教会の周辺はほとんど家が全壊状態でした。いまも水道、ガスは止まったままです。一日も早い復興を祈るばかりです。
 
 西宮教会での救援活動はだいたい三つのことでした。一、臨時学童保育。二、大谷避難所訪問。三、地域の方々への奉仕(水汲み、救援物資配布、夜回りなど)。
 
 これらの活動のうち、臨時学童保育は大変意義深い活動でした。被災後すぐに現地へ入られた方々の選択が間違ってなかったと思います。この震災で子どもたちが受けた心の傷を癒すこと。また、保護者の方々が安心して後かたづけできることの手助けができたからです。
 
 ある保護者の方からは「学童にいくようになって子供が私から離れて遊ぶようになりました」「子供が夜泣かずに寝れるようになりました」「子どもたちが学童に行っている間、安心して家の片づけができます」といった感謝の言葉をいただいています。
 
 これからも臨時学童保育は続けられます。そしていまでは幼稚園児の学童保育も始めました。定員二十名をはるかに超え、三十名になりました。市原牧師(西宮教会)は「神様がこの礼拝堂を残して下さったのは、何かに使えということだね」と言われます。何ができるか模索し、そしていま学童保育を与えられています。

2017年12月4日月曜日

「捨てて信仰を拾う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「捨てて信仰を拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

九州学院の高校3年も大学進学を目指して追い込みと言ったところでしょうか。自分も大学進学のために、東京へ旅立った日のことをおもいだします。神学大学の寮につき、自分の荷物をまえにしたときの、なんとも表現できない悲しいような気持ちを思い出すのです。部屋についた荷物は、布団一組と段ボール箱一つでした。箱の中には本が三冊とカセットテープ、鉛筆削り、そしてインスタントコーヒーだったのです。あれから30年、なんと荷物が増えたことでしょうか。三冊だった本はいまや段ボール百箱。あ~あ。家族が増え、家具が増え、ステレオに車が増え、心に平安が増え、心配事が増え。

 私たちはたくさんのモノを持っています。物質的にも、精神的にも。持ってしまった以上に捨てきれないのも私たちです。しかし、原点を思い出すたびに何が大切かを思い知るのです。なぜなら、三冊の本とは「聖書」でした。捨てきれない荷物のおもさまえうしろ 山頭火

徴税人レビ(使徒マタイ)の召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。イエス様のこの一言を待っていたのです。彼も悩み苦しみの中で、イエス様との出会いを待っていました。

良寛さんというお坊さんがいます。大好きなお坊さんです。その良寛さんの逸話話に「拾うことの楽しさ」というのがあります。良寛さんは人々がお金を拾ったら大喜びするのが不思議でたまりませんでした。良寛さんにとってお金は何をおいても大切なものではなかったのでしょう、それで、良寛さんは自分もやってみることにしました。自分のお金を捨てて拾ってみます。全然楽しくない。ところが、投げ方が悪く草むらに入ってしまった。必死に探して見つかったときの喜びがわかったという話です。良寛らしい話だと思います。

本日の聖書では「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。すべては捨てたけれども「イエスに従う」という信仰を拾ったのです。信仰を拾ったというのは与えられたのです。神様から一番確かなものを与えられたことになります。私たちが必死にしがみついているものは何でしょうか。信仰はしがみつくものではありません。与えられるものです。

「受けるだけでなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「受けるだけでなく」

2コリ 8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

広島のストリートにハギーというミュージシャンがいました。夢を追いかけていたに違いありませんが、33歳の若さで天に召されました。夢だけで生きていたら終わりということも知っている彼でした。夢を追いかけるためには、昼間は重労働し汗まみれに働いて、よるデパートの前で唄っていたのです。彼の歌で「自由詩人」というものがあります。繰り返しでてくる言葉は「奪うことは止めにして、与えて生きていこう」でした。イエスが言われた「受けるより与えるほうが幸いである」という言葉と重なりました。彼の中にもイエスが御言葉をまかれていたのですね。彼は長崎の五島列島出身でした。

この手紙の8章9章は、エルサレムの貧しい聖なる者たちへの募金を訴える趣意書のような内容です。パウロは「異邦人の使徒」であったが、エルサレムの聖なる者たちへの募金活動を、ガラテヤ、マケドニア、アカイアの各地方で行っていました。コリントの人々はパウロとの関係で、この募金を停止していたようです。そこで、もう一度再開するようにと呼びかけています。その中で、コリントの人々が豊かに受けている恵みをあげ、それゆえに奉仕することを促しています。

イスラエルに「死海」という湖があります。地球上で最も低い所にある湖で、海抜マイナス418メートルにあります。海水の塩分が3%に対して、死海は30%あります。当然ながら、生物の生息には不向きな環境であるため、湧水の発生する1ヶ所を除き、魚類の生息は確認されていない。死海という名称の由来もここにあります。この死海についてイスラエルの旅行ガイドは次のように説明しています。「死海はヨルダン・ガリラヤの何本かの川から命の水を受けているが、自分から外にだすことはない。受けるだけで与えることがなければすべては死んでしまう」と。神様からのたくさんの恵みを受けるだけで隣人に与えることがないならば、その人の信仰は死んでしまうということです。

パウロは「すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」と言います。神様から受けたものを与えることによって、自分も豊かな者になるということです。イエス様の言葉として使徒言行録には「受けるよりも与える方が幸いである」と記されています。

2017年12月2日土曜日

きままな休日・阿蘇の恵み

阿蘇も復興してきました。
阿蘇と言えば、やっぱりミルクから。
そして新鮮な野菜。
さらに、雄大な自然もご馳走ですね。
感謝!

2017年12月1日金曜日

鶴がやってきた

今年も出水に鶴がやってきました。
さっそく会いに行ってきました。

2017年11月30日木曜日

「新しい試み」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「新しい試み」
 
 教会は様々な新しい試みができる教会です。隣の教会との連立教会としてだけでなく、牧師を神様の働きために送り出す教会でもあります。そのことは特別伝道にいった先々の教会でいつも話題になるのです。「留守礼拝はどうされているのですか」と。
 
 これまでいろんな留守礼拝を守ってきました。ビデオ礼拝、テープ礼拝、信徒証言礼拝、祈祷礼拝。そしていま行っているのが「朗読説教礼拝」です。これまでいろいろな試みをしてきましたが、この「朗読説教礼拝」がいまのところ一番よい方法だと思われます。
 
 説教とは神様の言葉です。それは牧師を通して、そして朗読奉仕をしてくださる方々を通して語られる福音です。そう考えれば、それがビデオでも、テープでも同じです。しかし、そこに人の存在があるかないかは大きな違いです。朗読される方を神様は用いて祝福を与えられるのです。
 
 これから牧師数が減少していきます。そのとき教会の試みが全体教会の益となればいいと思います。ご意見をください。

2017年11月29日水曜日

「種から育つ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「種から育つ」

1ペトロ 1:23  あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

ある牧師さんから秋だというのでプレゼントされたものがあります。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは東京の教会のベランダでとれたものだそうです。それらの木を大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらず。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。

ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。

ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。

ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。

2017年11月28日火曜日

「神様のベット」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様のベット」
 
 幼子の寝顔はやっぱり平和だなとしみじみ思います。
 
 先日、愛美と昼寝をすることになりました。同じ布団に入り枕を並べて、しかも手を握って昼寝をせねばならなくなったのです。たぶん三番目がで来たことで甘えん坊になったのでしょう。
 
 さて、横にいて違うことを考えていました。「人間が眠る瞬間とはどのような時だろうか」とふと思ったのです。そこで愛美が眠る瞬間を見てやろうと薄目を開けて眺めていました。ところが眺めているうちに、私の方が寝てしまったのです。あまりにも平安に満たされた顔をしていたので、私の方が先に安心しきってしまったようです。
 
 「平安」とはいったい何でしょうか。それは幼子の寝顔そのものだといえます。私たちの寝顔もそうかもしれません。なぜならば、本当に安心しきってないと充分に眠ることができないからです。幼子たちが私たちに教えてくれる平安とは、すべてを委ねきった安心感でしょう。
 
 私たちはどこにいても、いかなる状況でも神様の懐という一番安心できるベットを持っています。それだけでも幸せです。

2017年11月27日月曜日

「今日何を行う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「今日何を行う」

1コリント 15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。

伝道セミナーに参加して、一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。しかし、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということをいつも学びました。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。30人位の家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。100人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。先の夢にむかって今があることを考えてみたいと思います。

パウロは神様の教会を迫害したにもかかわらず、その彼が使徒となったのは「復活の主」との出会いによります。その出会いが恵みであり、神様によって「今」があるというのです。過去でも未来でもなく、「今在る者」として他の弟子たちより多く働いたと言っています。

ある本の中で次のような1節を見つけました。「プランニングにおいて重要なことは、明日何かを行うかを考えることではない。明日のために今日何を行うかを考えることである」。仕事にしろ、人生にしろ、いろんな計画を立てながら生きています。多くは明日何をするかを考えています。しかし、目標が何であり、なぜ自分は生かされているかを知ることによって、その明日のために「今日」何をするかが大切なのです。

パウロは神様から大きな恵みを受け、罪赦された者となりました。その時、異邦人への福音宣教というプランを与えられました。そのプランの実現のために「今日」何を行うべきか、「今日」あるべき姿を示すのです。自分の明日のために「今日何を行う」べきであるかを考えながら過ごしていきましょう。

2017年11月25日土曜日

きままな休日・ジャーマンポテト

これって好きです。
ドイツのビールに絶対合うと思います。
いやいや日本のビールにも合います。
じゃがいもとベーコンさらにチーズなんですから。

2017年11月23日木曜日

「神様がセキュリティー」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様がセキュリティー」
 
 教会には、多くのセールスマンの方がやってきます。事務機関係、電話帳、公告関係、新聞、有線放送、書籍などなど。先日もある業者の方がやってこられました。しかし、ちょっと首を傾げて帰っていかれたのです。その業種とは「セキュリティシステム」です。
 
 セールスマンいわく「このシステムは防犯のために役立ちます。いろいろな方の入室が防げます。二十四時間体制ですので安全です」とのことでした。私は「この教会はたとえそれが泥棒でも入ってよいのです。二十四時間鍵はかけてありません。いろいろな方が自由に入室してもいいのです。神様みずからがセキュリティーです」と答えました。すると彼は「そんな無茶苦茶でいいんですか」と言うのです。
 
 私たちにとって教会を守ることは大変なことです。しかし、それを機械まかせにしたり、誰かを雇ったりはできません。教会を守るということは、一人一人が祈るほかないのです。どうか祈ってください。教会がどんなときでも地域にたいしてオープンであることを、祈りで支えてください。神様の守りこそが最高のセキュリティーですし、そこに奇跡がおこるのです。
 

2017年11月22日水曜日

「信仰というよりも

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「信仰というよりも」

ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。

イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。

信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。

本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。

2017年11月21日火曜日

「人生の天然酵母」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「人生の天然酵母」
 
 宇部教会の松岡兄から、「手作りビール」をいただきました。その味たるや、まろやかで、とっても美味でした。この手作りビールについての苦労話を少しお聞きすることができました。
 
 この手作りビールの大変な所は、その温度管理・調節にあるそうです。なんでも室温二十五度から三十度を保たないと酵母が死んでしまうのだそうです。この温度を保つことがどんなに大変なことか、想像するだけで感謝していただけます。
 
 私もいま、天然酵母のパンを焼いています。酵母をつくるのに四十八時間かかります。それをパンにするまでに、今の季節では十二時間から十六時間を必要とします。酵母を死なせないように、絶えず見守っていくことが、ビールでもパンでも大切なのだと言えます。
 
 私たちの人生もまた、天然酵母(キリストの御言葉)が必要です。ちょっと目をはなしたら死んでしまいそうです。しかし、この御言葉酵母の素晴らしいところは、死んでもまた復活するとこにあります。御言葉酵母はたえずいただくことが大切です。復活させるには御言葉を読むことです。
 

2017年11月20日月曜日

「無一物」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「無一物」

2コリ 6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

先輩の牧師がラジオ番組に出演された時のことでした。その番組は、ある宗教がスポンサ-で、どうしても牧師と紹介できないとディレクタ-は困っていたそうです。録音の日になり、三人のゲストが揃い番組は始まりました。最初は司会者がゲストの紹介をします。さて牧師と言わずに何と紹介したのでしょう。「本日のゲストは、岡山大学の〇〇教授、ノ-トルダム女子大の〇〇教授、そして日頃ボランティアにがんばっておられる方です」。私たちはそれぞれ肩書きを持っています。また、肩書きで人を見たりもします。しかし、肩書きは肩書きでしかないのです。その人の全てではないということです。肩書きのないところで、自分は自分をどう紹介するでしょうか。

コリント2の手紙の6章でパウロは、コリントの人々へ語ってきたことを一度まとめています。結論としては「心を開くように」と勧めています。それが警告の言葉であったとしても、心を狭くせずに受け止めなさいというのです。パウロの言葉の背後には、パウロが持っている福音があります。何ももっていないパウロがもっているキリストのみ言葉によって「心を開くように」と言うのです。

千利休が陶工・長次郎に造らせた抹茶碗に「無一物(むいちぶつ)」というものがあります。松平不昧公(17511818)所持で知られる赤楽茶碗の名碗です。この茶碗になぜ「無一物」と名前がついたのか私にはわかりません。無一物とは、好き嫌いとか損得、良し悪し、などといった二見にとらわれた概念がないことです。囚われない心というのかもしれません。この茶碗をみていると、その存在のみでいいのだという気になってきます。どう受け取るかはあなた次第。そうするとこの茶碗には無限の解釈ができるということです。心を開いてみるときに受け取る無一物があるのでしょう。

パウロは「無一物のようで、すべてのものを所有しています」といいます。何も持っていないようですべてを持っているというのです。パウロにとってキリストの福音を持っているということは、すべてを持っているということと同じことなのです。私たちが人生の中で持たねばならないものは多くはありません。いや一つです。それがイエス・キリストなのです。

2017年11月18日土曜日

きままな休日・食べ過ぎ~~~

ちょっと調子にのって食べ過ぎてしました。
カレーだけ、うどんだけにすればいいのですが。
このお店は両方おしいのですよね~

2017年11月17日金曜日

姉妹教会の成長!

鹿児島教会が成長していますよ!
ますます聖なる空間になりました。
阿久根教会も礼拝出席がつねに二桁になりました!
神様に感謝!

2017年11月16日木曜日

「ちょっと時間を」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ちょっと時間を」
 
 牧師という職業の恵みの一つに、いつでも家にいるということがあります。ところが、いつでもいるということは、かえって家族には不満なところもあるようです。その一つに、子供と遊ぶ時間をとらないということがあります。いつもいるわけですから、まとまってその時間をとる必要はないと思っていたのです。「お父さんは、ぜんぜん遊んでくれない」と不平を言われてはじめて、その時間をとってないことに気がついたのです。
 
 先日もいつものように長女が、「お父さん遊ぼう」と言ってきました。すかさず「仕事があるから」と私。「いつも遊んでくれない」との長女の言葉に、「お父さんには仕事がたくさんある。いつもいっしょにいられるだけ良いと思いなさい」と怒ってしまいました。ワープロを打ちつつ窓の外を眺めてると、長女が一人でままごとの道具をいっぱい持って公園にいくところでした。その後ろ姿がせつなくて涙がでてきました。そこで、たったわずかな時間じゃないか、いっしょに遊ぼうと決心したのです。
 
 二人でブランコに乗り、青空に足がとどきそうになるくらい、思いっきりこいでみました。そのときの清々しさに感動しました。そしてふと隣りの長女をみると、同じくらいブランコをこいでいました。そのリズムが一つになったとき、娘はこんなに成長したのかと、神様に感謝しました。青空と長女の笑顔、一生忘れられないものです。

2017年11月15日水曜日

「み言葉の命を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「み言葉の命を」

ペトロの手紙1 1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

私たちは毎日何から始めているでしょうか。自分のことを考えてみると、やっぱり祈りからでしょうか。そしておもむろに洗顔でしょうか。つまり、毎日の習慣などは忘れているようなものです。忘れてもできるからリズムよく動けるのかもしれません。礼拝も生活習慣だと言われます。「今日こそ行くぞ」も必要ですが、自然とそこに座っているというのが本当の礼拝といえます。生活のリズムとしての礼拝ができれば、負担になることから解放されそうです。しかし、人間はすぐにリズムを壊してしまうものです。

ペトロは手紙の中で「聖なる生活をしよう」と呼びかけています。私たちを不順な生活から召しだして下さった神様にならって、その生活面で聖なる者となることを求められています。それができるのは、召しだされた者が、新たに生まれたものだからというのです。しかも神様の言葉という朽ちない種から生まれた信仰者だからこそ聖なる生活をしようと言われています。み言葉の種は生きており、新たに生まれさす力をもっているのです。

宮戸島にある月浜の被災地に行ったときのことです。。その集落は津波によってほとんどの家が全壊していました。やっと重機がはいり、整理が始まった頃かもしれません。全壊した家の前にたち祈っていますと、ふと足元に花を見つけました。よくみるとジャガイモの花でした。ちょうどそこは家の台所があった場所のようでした。家にあったジャガイモが津波で全壊した家の下から芽をだし、花を咲かせたのです。もうすぐ実もなることでしょう。神様が与えられた命はこんなに力強いのです。芽を出すだけでなく、明日へと命をつなぐ実を結ばせるのです。生きた命の尊さと力を教えられました。

ペトロは「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と教えてくださいました。私たちは、神様の生きた御言葉によって新しく生まれたものです。私たちの中には神様の命が宿っています。この命が「死んでも生きる」命です。私たちに与えられた御言葉を見つけ出すとき、私たちはおのずと聖なる生活に招かれていることがわかります。

2017年11月14日火曜日

「ファンに支えられて」

 

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ファンに支えられて」
 
 「第七回クリスマスフェスティバル」も奇跡的に終わりました。奇跡的というのは、前日まで本当に開催できるのか、開催していいのだろうかと思ったからです。もっといえば、当日十一時半がやってきてもどうなることかと心配された方もいらっしゃるでしょう。しかし、なにより無事に事故もなく終えられたことを感謝いたします。
 
 さて、今回のフェスティバルを通してわかったことは、それぞれの信者の方にファンがおられるということです。その方々が協力してくださったから開催できたということです。準備から献品。当日のお手伝いにいたるまで、この教会だけの方々ではできませんでした。ところが、ルーテル徳山教会の信者ではなくても、それぞれの信者につながる友達が笑顔でお手伝いくださったのです。これこそ、世の光としてのキリスト者の生き方があればこそと思いました。
 
 コンサートやフィリピンコーナー、他教会の方々も一つになれました。反省すべきところは反省し、来年に備えたいと思います。

2017年11月13日月曜日

「先に」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「先に」

  マタイ  14:22 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

   NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。どちらが「先に」というところに微笑ましさを感じます。
  
イエス様が湖の上を歩いたという奇跡物語です。これを合理的に解釈しようとする人たちは「イエス様は岸辺の浅瀬を歩いておられたのであって、弟子たちが嵐で動転していたため夜明けの薄明かりの中で見誤った」と解釈しています。また象徴的解釈としては、「沖へ漕ぎだす舟は教会を表し、イエスが不在の教会は夜の闇の中で逆風と波に悩まされる。そこへイエスは神として現れ、弟子たちを救助する」とあります。どちらにせよ、弟子たちを「強いて先に行かせた」というところが心に止まりました。
  
今年は台風が首都圏を直撃しました。心配はしていましたが、進路は変わらずに上陸し、日本列島を縦断しました。こんなとき事務局は、どのような対応をされたのかと思いました。そこで振り返ってみると、台風が来るたびに危機管理ということをまた学びました。いつどの時点で帰宅指示をだすか、なにを優先させるべきか。それらはすべて危機管理がどうであるかが問われることです。被災地でもこの危機管理ということを何度も聞きました。ある被災者は「先をみた早めの判断」ということ言われました。危険が近づいている時、先を考えて、早めに対処すること。なにもなければそれが一番よいことであると。管理職に求められる危機管理に「先をみて判断する能力」があると言えます。
  
イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。先をみておられたのでしょう。しかし、その「先」はただの逆風ということではなく、そこにおける信仰をみておられました。神様がなさることは「先先へ」と進んでいきます。あとで分かることが多いものですが、すべては神様の導きの中にあることを信じて歩むことが大切です。