2017年8月19日土曜日

気ままな休日・鹿児島はとんかつでしょ!

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ま~~~~~お盆の帰省客で鹿児島はいっぱい。
まさかこんなに暑いので観光ではないでしょうが人がいっぱいです。
で、いつもなら少し並べば食べられる豚カツも時間がかかるんです。
それでも食べなきゃきがすまないんですね~
やっぱり豚カツは大好きです。元気も出ますし。
栄養もいいでしょう!
また来週もたべたいな~~~

2017年8月18日金曜日

鹿児島教会に中高生が集った!

九州教区中高生キャンプが
鹿児島教会で行われました!
ルターとザビエルがてーまでした!

2017年8月17日木曜日

「うな重が牧師に必要?」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「うな重が牧師に必要?」
 
 西教区牧師退修会が津和野で行われました。現代のキリスト教にとって津和野(キリシタン殉教の地)はとても意味深いところです。宣教二世紀に入ったルーテル教会にとって、西教区の牧師たちが津和野から宣教二世紀を踏み出すことに神様の導きを感じています。
 
 さて、その牧師会の最終日は、「ドライブイン津和野」で昼食をとることになりました。それぞれに自由にメニューを注文してよいことになりました。誰が何を注文するのか興味深くながめていました。結果は中華丼・八宝菜定食・焼き肉定食・ハンバーグ定食・ざるそばが各一個づつ。圧倒的人気はうな重で十三個でした。
 
 牧師はやっぱり体力勝負なのでしょうか。自然と体が求めているようです。神様はその人にいま必要なものをご存知です。そしてそれを求めるように導いておられるのでしょう。
 
 あなたがいま無意識に求めているものは何でしょうか。祈りですか。御言葉ですか。愛ですか。お金ですか。食べ物ですか。しかし、求めても与えられないのならば、本当に求めなければならないものを求めていないからです。必要なものは信仰によって与えられるのです。

2017年8月16日水曜日

「心強い存在がある」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「心強い存在がある」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。普段、私たちは神様に守られていきていると、その存在に気がつき感謝するということを忘れてしまいます。今日も元気に目を覚ますことができた、それだけでも神様が大きな恵を与えてくださっているのですが、神様の存在を感じることができません。だから、人は痛み苦しみにであったときに、神様の知るようになるのでしょう。苦しい時の神頼みではなく、私たちには共にいてくださる神様がおられることを思い出すのです。

 ルカによる福音書は、クリスマスの出来事の中心に2人の女性を置いています。一人はマリア、もう一人はエリザベトです。このエリザベトはマリアの親類でエンカレムに住んでいました。年をとっており、不妊の女といわれていました。夫であるザカリアのもとに天使ガブリエルがきて、エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもることを告げます。クリスマスの出来事の中に、神様の奇跡で子どもを身ごもった女性が2人いたのです。

 保育園のチャプレンをしていた時のことです。「氷鬼」という遊びがあります。鬼ごっこのようなものですが、鬼にタッチされたら固まって(氷になって)動いてはいけない。仲間が助けにきてタッチされるとまた動けるようになるという遊びです。この遊びをしている時、一人の男の子が泣きだしました。別になにがあるわけでもないので、「なぜ泣いているの」と聞きました。すると「氷になったまま、誰もタッチに来てくれない」と言うのです。たった一人でじっと立っていることが寂しかったのでしょう。自分のことを誰も気づいてくれないということが辛かったのです。

 イエス様を身ごもったマリアも、自分一人の問題として受けとめようとしました。聖霊によって身ごもったなどと誰も信じてくれないからです。しかし神様はマリアを一人にはしておかれませんでした。親類のエリザベトも洗礼者ヨハネ身ごもっているというのです。年とった不妊の女と言われていたエリザベトも神様の奇跡によって身ごもったのです。一人ではないことがマリアにとってどれだけ心強かったか。ここにも、インマヌエル(神我らと共にいます)が語られています。

2017年8月15日火曜日

「マカオからの葉書」

クレヨン牧師のミニエッセイ
 
「マカオからの葉書」
 
 毎週一回、必ず葉書が送られてきます。しかも国内からではなくマカオからのものです。マカオの友人が祈りや黙想の中で気がついたことを書いて送ってくれるのです。先週も木曜日に送られてきました。しかし、今回の葉書は読みつつ考え込んでしまいました。そこには次のように書いてありました。
 
 「変えようと思わないこと。変えようと思う欲望は愛の敵。自分を変えようと思わないこと。ありのままの彼らを愛すること。世界を変えようと思わないこと。それは神様の手の中にあるから。そして神様はそれを知っている。このことがわかれば不思議と変わってくるものだ。荷物に邪魔されないように人生の流れに身をゆだねること」
 
 まるで禅問答でしたが、神様がなさることを変える力など人間にはないということでしょう。神様だけでなく、人を変える力も持ち合わせてないのかもしれません。イエス様の時代でさえ、たくさんの人たちがイエス様のもとを去っていったのです。
 
 宣教とは神様や人を変えることではありません。今は福音の種まきでしかないのかもしれません。そのためになんでもやってみることです。創意工夫して、たとえそれが自分でむなしくなってきても、続けることしかないのです。種は神様の力で芽を出すのですから。

2017年8月14日月曜日

「わかっているから」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「わかっているから」

 ルカ 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。

「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。ありのままということが最近よく聞かれます。しかしこのありのままほど難しいものはありません。

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神様から遣わされます。そこに住むマリアにイエス様の誕生の予告をするためでした。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と挨拶し、イエス様を身ごもる予告をしました。マリアはこの出来事に恐れ、戸惑い、一度は拒否します。結婚前の女性が妊娠することでおこる試練、迫害、困難を乗り越えねばならなかったからです。最後には神様の言葉を信じ、その出来事を受け入れる決心をしました。

 テレビで小耳にはさんだ話です。ある女性の起業が成功し、これまでの人生についてインタビューしていました。話のなかで彼女は人生を振り返り、その試練と悩みが次々に起こったことを紹介していました。最終的には多額の借金をかかえ、夫と別れ、子ども3人を育てるために昼夜働かねばならない過酷な試練にあうのです。しかし彼女は「いまはこのように事業が成功した。すると、あの時の試練や苦しさはいまの成功のために必要なステップだった。必ず成功すると信じれば、いまの苦しみはそのためのステップなのです。そう考えている」と話していました。未来に起こることを信じることで、いまの苦しみを乗り越えることができるのだと思います。

 イエス様の母マリアは、天使のお告げに「何のことかと考え込んだ」とあります。これから起こる出来事の試練、いま自分おかれている状況への不安。たくさんの思い悩みがあったことでしょう。しかし母マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」とそれを信じ受け入れたのです。神様のみ子が誕生するという未来に起こる奇跡を信じたことで、この試練を乗り越えていきました。神様が必ず導いてくださる。この信仰が私たちに生きる勇気を与えてくれるのです。

2017年8月12日土曜日

きままな休日・大地の恵みポークももハム1本


中高生キャンプでは8キロのももハムを食べました。
何とも贅沢。熊本にある大地の恵みポークからです。
ドイツを学びポークハムを食べる。楽しい企画でした。

2017年8月11日金曜日

阿久根教会礼拝前

阿久根教会にはエアコンがあります。
涼しい中で礼拝ができますよ!

2017年8月8日火曜日

「冷や汗の講演会」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「冷や汗の講演会」
 
 母校「九州学院」で、宗教特別伝道週間の講師として招かれました。とても不思議な感じがしました。なにせまだ恩師の先生方がたくさんおられたからです。つまり、自分の高校生時代のことを知っておられる先生方の前で講演をしたのです。
 
 一日目は先生方への講演の日でした。初めは「なんとかなるさ」と思っていましたが、いざ講壇に立つと、足は震え、冷や汗はでてくる。しかも見渡せば皆が注目してくださっているけれど、目をあわせることができないのです。深呼吸して祈りました。「イエス様、私には話すことができません。あなたが語ってください。よろしく。アーメン」。すると自然に言葉が出てきました。この高校で聖書に出会ったこと。そしてキリストに導かれて教会生活を送ったこと。牧師として導かれたこと。証しができました。
 
 二十分の話が終わった時、「自分はなんて幸せな牧師だろうか。恩師の先生方にこのような形で感謝することができた」と思ったのです。ついでに「神様のクレヨン」を全員の先生にプレゼントすることができました。じつは国語の成績は悪かったのですが、国語を教えてくださった先生がすれ違いざまに「ニコッ」と微笑んでくださいました。まさに冷や汗の一瞬、しかし喜びの一瞬でした。

2017年8月7日月曜日

「別の道を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

 
「別の道を」

マタイ 2:12 「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 ある教会からの帰り道でのことでした。通り抜けようとス-パ-の信号へ差しかかったとき、地面を動いているものを発見しました。よく見るとカニが道路横断中だったのです。わりと大きなカニで体調十センチはあったでしょうか。しかも、車がどんどん通り過ぎるなかを、車に対してはさみを振り上げ威嚇していたのです。それを見ながら二つのことが頭に浮かびました。「一、自分を知らないということは恐ろしいことだな。二、ここに道路さえなかったら、カニは死なないでよかったろうに」ということです。そしていろいろと考えながら、自分を知らない人間ほど恐ろしいものはないという結論に達したのです。自分を知ること。これには自分を別な角度から見ることが求められます。第三者の視点、それがは別の視点であり、神様の視点だと思います。

イエス様の誕生のとき、東方から3人の博士がやってきます。彼らはまず、ヘロデの所に向かいます。ユダヤ人の王様が誕生することを星によって知らされていました。ヘロデはこれを聞いて不安を感じます。自分ではない王様が誕生するというのです。その後3人の博士はベツレヘムでキリストを拝みました。これがクリスマス礼拝です。ところがイエス様の誕生を知ったことで、ヘロデから命を狙われることになり、神様が示される別の道を通って自分たちの国に帰ることになりました。

 大都市の交差点には、目の不自由な方のための音の出る信号が設置されています。とくに車の流れが多く危ない所に設置されています。ところが、ある都市ではこの音がなるのは午後7時までと決まっているそうです。理由は周辺住民から、その音がうるさくて騒音だという苦情があったのだとか。市の管理、警察が話し合って午後7時までにしたというのです。「目の不自由なものは午後7時以降の外出はするなということですよ」と、それを利用している方が言っておられました。それが必要ない方にとっては騒音になる。しかしそれが必要な方々おられる。何かよい別の方法はないのかなと思いました。その方法を考えるのは「管理者、住民、目の不自由な方」の3者と、それを聞いた私たちなのだろうと思います。共に生きるという視点から考える時に、神様が別の方法を教えてくださるのではと思うのです。

 クリスマスの時、3人の博士は「別の道を通って・・・帰って行った」とあります。この別の道を示されたのは神様でした。ヘロデの難から逃れるための道です。私たちの人生、行き詰ったときでも必ず道が用意されています。その道を見いだすには、つねに神様のみ言葉に触れていないといけません。別の道も神様の道なのです。

2017年8月3日木曜日

「大切なことを見失う」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「大切なことを見失う」
 
 東京での会議のあと、新幹線に乗ってまず祈ります。この会議で神様は一体何を教えておられたかを確認するためです。次に「うなぎ弁当」を食べる。これが日課のようなものです。食事が終わると、次は何か本を読むことにしています。大抵、熱海までくると眠くなってきて京都まで寝ます。
 
 今回はアントニー・デ・メロさんの黙想説教集を読みました。その第一編の終わりに一つのたとえ話がありました。それは次のようなものです。
 
 「観光客の一団を乗せたバスが、目の覚めるような美しい田園地帯を走っている。湖、山、草原、川が次々と姿を現す。しかし、窓の日除けはおろされている。乗客たちは、バスの窓の向こうに何があるのか知ろうとしない。旅行中ずっと、誰が上席につくか、誰が拍手喝采を受けるか、だれがよく思われるか言い争ってゆく。旅が終わるまでずっと」。
 
 これはどんなたとえ話でしょうか。ある人にとっては人生のたとえ。ある人にとっては、いま忘れかけている信仰のたとえかもしれません。私はこのたとえを読んでとっさに窓の外をながめました。第一編に与えられた聖句はこれでした。
 
 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか」マタイ十六章二十六節

2017年8月2日水曜日

「向かい合う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「向かい合う」

マルコ  12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。

はじめて赴任した教会には幼稚園がありました。その園で飼っている鶏とアヒルは、注意深くみると私たちに素晴らしい警告を与えてくれました。それは人間も同じだなということです。

ある時、こんなことがありました。毎朝えさをあげるのですが、えさの桶は二つあります。二羽しかいませんので、一羽に一桶という計算になります。単純にはそうですが、この桶の取り合いが傑作なのです。ちゃんと同じにわけても、一つの桶を二羽が取り合いをするのです。しかも最初に口をつけたほうを、二羽で取り合いをしている。たまたま一羽が途中でもう一つに移れば、またそれを取り合いしているのです。これを眺めながらある意味でぞっとしました。他人のものはよくみえるということは、人間に限らないということです。そこに欲望・恨み・嫉妬の根源があるような気がします。自分は何を見ているか、何と向かい合っているかが問われます。

 イエス様の時代には、神殿にラッパの形をした献金箱がおかれていました。人々はこのラッパに向かって多くの献金を投げ入れていたのでしょう。その中にわずかな献金を入れたやもめがいました。イエス様は、やもめを無視なさいませんでした。金額の大小ではなく、やもめの信仰に目をとめられています。投げ入れたか、入れたかは大きな違いです。イエス様は賽銭箱の向かいに座っておられ目をとめられたのです。

 いじめが原因で自殺した小学生のニュースがありました。いつ聞いても胸がつまります。同じ年頃の女の子をもつ親として痛みを覚えます。今回も学校の対応、教育委員会の在り方に疑問をもちました。PTA会長をやっていた時と同じ疑問です。なぜ向かい合うことができないのかなと。ある時、市PTA連絡協議会で中学校のPTA会長さんと席が同じになりました。その方が、なぜPTA会長をしているかを話してくださったのです。彼は「自分の娘は中2で妊娠し子どもを生みました。そこから地獄の日々を過ごしました。学校も先生も教育委員会も娘を助けてくれなかった。でも親である私はそこで娘と真剣に向かい合ったのです。その時、私一人が最後まで向かい合う決心をしたのです」と教えてくれました。

 イエス様は、賽銭箱の向かいに座っておられました。すべての人と向かい合っておられたのです。そこで1人の貧しいやもめと出会われました。イエス様が彼女の中に何をみたのか。それはすべてを神様に捧げる信仰だったのです。向かい合ってはじめてわかることがあります。

2017年8月1日火曜日

「大人の国に旅して」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「大人の国に旅して」
 
 ドイツはとても奇麗な国でした。はじめてのヨーロッパでしたが、「大人の国」なのだという感想を受けました。
 
 フランクフルトに着き、まず驚いたことは「入国審査」が簡単なことでした。チラっとパスポートを見せるだけなのです。そして駅。なんと改札には人が誰もいないし、改札さえないのです。つまり、自分の良心と責任で切符を買いなさいということでしょうか。ただ乗りなどするような人はいないよとでも言われているみたいです。すべてがそのような感じでした。バスに乗っても自己申告ですし、会議にはすべて、ビール、ワイン、ジュース、水と置いてあり、自分の責任において飲みなさいということでしょうか。飲み過ぎて酔っぱらう者などいないのでしょう。人として生きる上で何が大切なのか。神様を愛し、人を愛することが徹底しているような国に感じました。
 
 ところが、教会への礼拝出席は悪いのです。五千人入る礼拝堂でも三十人か四十人。地方の教会でよくて二十人。悪ければ五人という教会もありました。生活の全てがキリスト教化されてしまって、いつのまにか、もっとも大切なキリストの存在がなくなってしまっているのかもと感じました。今回のドイツへの旅で神様は何を教えてくださったのか。じっくりと考えているところです。

2017年7月29日土曜日

きままな休日・これなに?

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博多の居酒屋で出てきたものです。博多鳥だと思いますが、、、
しっとり柔らかく、酢味噌でたべるなんて。まさか魚じゃないでしょう。
いやいや鳥でした。うまかったです。

2017年7月27日木曜日

礼拝時間の謎

クレヨン牧師のミニエッセイ

「礼拝時間の謎」
 
 ペンテコステの日曜日、朝早く洗礼式を行うために柳井教会へ行きました。早朝のドライブはとっても気持ちがいいですし、緑が青々としてして心が清らかになりました。
 
 さて、車を飛ばしていると、いま田植えの真っ最中です。多分日の出のすぐあとから働いておられたのでしょう。そろそろ仕上げにかかろうとしておられるのがわかりました。それをながめながら、礼拝がどうして十時半からなのかわかったのです。
 
 私たちは無意識に十時半の時間を迎えます。いったい誰がこの時間を決めたのでしょうか。そしてなぜ十時半なのでしょうか。実はこれは農作業をしておられる方たちの時間と関係がありそうです。朝一番の仕事のあとの休息時間なのです。
 
 一番平安な時間。それは一仕事終えた時間でもあります。そこに本当の感謝や喜びがあるのです。私たちはこの時間を大切にしたいと思います。その時間を脅かすものが多いのですから。

2017年7月26日水曜日

成長すること

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「成長すること」

二ペトロ  3:18 わたしたちの主、救いイエスさま・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。

事務局長時代のひとつの課題は、会議全体を整えることをでした。資料の作成、事前配布、審議方法の簡略化、フォーマット作成、速報を流す体制つくりなど。また席を指定し、名札をおいて同席・陪席の色分けを行いました。整えられた会議はとても気持ちがいいものでした。ある日のことでした。35年も働いておられる掃除のおばちゃんが出席者の名札をみて一言。「あれこの子、偉くなったのね」と。学生の頃から知っている名前がそこにあったのでしょう。「ちゃんと成長したのね」と喜んでおられました。その成長がイエス様においてであればいいのですが。

 聖書にはペトロの名前をしるした2通の手紙があります。この2つ目の手紙は、著者とは異なるキリスト教理解を主張する「偽教師」を退け、その主張に惑わされないように警告しています。本日の箇所は、この手紙の最後の結びの言葉です。私達はイエス・キリストの恵みと知識において成長しなければならないことをのべています。

 中国の昔話です。「ある人が種をまいてから、毎日毎日その畑を見回っていました。ところが、となりの畑の方が芽の伸びがよい。うちの方が悪すぎるということに気づきました。そこである夜、自分の畑にでかけていき、一本一本手で引っ張って伸ばしました。翌日あれからどれだけ伸びているか期待してみにいきますと、全部の芽がお辞儀をしていました」。笑い話ですが、よく考えると笑えない話です。神様はその人にあった成長を一番よく知っておられます。ところが私たちは無理に伸ばそうとして駄目にしてはいないでしょうか。

 ペトロは「イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」と教えました。自分勝手に振る舞うのでなく、キリストの恵みと知識において成長することを求めています。私達を成長させて下さる恵み、与えられる知識はすべて神様のもの。み言葉に謙虚になることが成長のカギだと思います。

2017年7月25日火曜日

主婦の仕事は神様の祝福

クレヨン牧師のミニエッセイ

「主婦の仕事は神様の祝福」
 
 水曜日から主夫をしています。というのも、照美姉が「婦人会連盟総会」のために留守なのです。
 
 初日は朝早く起きて、娘たちのお弁当作りから始めました。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事がま待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。
 
 しかし、主婦の仕事はなんでもあるのだと思います。それら全部が実はこれほど神様から祝福されている仕事もないと確信しました。家族が平安のうちに出かけて、また帰ってくる。その拠点を守るのですから。これこそ主イエスに仕えることなのです。
 
 どんな仕事や役割も、すべては主イエスに仕えるということがなければみなしいものになっていきます。しかし、この仕事は主イエスに仕えているのだと感じたとき、そこには神様の祝福があるのです。
 
 「今日もこの仕事を通して主に仕えさせてください」。そのように祈ることから一日を始めることができました。

2017年7月24日月曜日

日曜日の夕方の飛行機で

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「日曜日の夕方の飛行機で」

マタイ  20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

イソップの話です。「神が、いいものをみんな、酒がめにつめてふたをしてから、ある人にやりました。その人は、がまんできずに、なにがはいっているのか見ようとして、ふたをとりますと、中にはいっていたいいものが、神さまのところへ、飛んでいってしまいました。しかし、おおいそぎで、ふたをしたものですから、希望だけは残りました。そこで希望だけが人間のところにいて、にげていったものがいまにまたくるといってきかせるのです」。希望だけが残ったという話は、滑稽なようでいても、心にずしりというものを感じます。私たちは見なければいけない事実から目をそらしてはいけないと思います。

 イエス様は「ぶどう園の労働者」のたとえを話されています。これも理解するにはよく考えねばならない話です。朝から雇われ真面目に働いた者と、最後の1時間しか働かなかった者が、主人の思いから同じ賃金を受け取るというものです。しかし、これは天の国のたとえ話ですから、神様(主人)の御心はどこにあるかを考えねばなりません。自分のことばかりしか見えてない者には「不平」しかないのです。

 事務局に勤務していた時の話です。日曜日の夕方、地方から羽田への便はいつも満席です。雰囲気的も「明日から仕事か~」とか「旅行も終わりだな」とか疲れている感じです。そんな時、乗客からの不満が多く聞かれます。結構、自分勝手な人たちが多いものです。昨日も「なんで満席なのに空席があるの」と乗務員さんに怒鳴っておられる人がいました。どうもキャンセルがでず、同行者とは別々の飛行機になったのでしょう。たまたま、自分の前に大物政治家の方がおられ、その横がひとつ空席だったので、政治家を優遇しているように思えて腹が立ったのでしょう。その後、どのような説明がなされたかはわかりませんが、そのやりとりを聞いている政治家さんも大変だなと思いました。

 イエス様のたとえ話の中で、不平をいった労働者の意見もわかります。1時間しか働かなかった者と同じ賃金では割が合わないからです。しかし、初めの約束は何だったか。主人の思いは何であるか。を考える余裕があれば不平を言わずにすんだかもしれません。怒鳴っていた乗客の方もきちんと説明をされたら納得なれたでしょうが、怒鳴ることによってまわりに与える影響は?と考えてみてもよかったかも。

2017年7月22日土曜日

きままな休日・呼子の活イカ

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   九州に赴任して家族ではじめてのバス旅行。我が家はバス旅行が大好きなんです。
   今回は呼子。そう活イカです。こりこりと歯ごたえ最高です。甘みもあって。
   やっぱりいいですね~げそは天ぷらにしていただきました。ついでにイカしゅうまいも1個ついておりましたよ~

2017年7月20日木曜日

こんなことなら

クレヨン牧師のミニエッセイ

「こんなことなら」
 
 中国の昔話「笑林」に次のようなものがあります。
 
 ある人が道を歩いているとき、けつまずいてころんだ。やっと起きあがって、いくらもいかないうちに、またころんでしまった。
 その人はカンカンになってののしった。
 「ちくしょう。こうと知っていれば、起きあがらないでいたのに」
 
 よく考えてみると、笑えない話かもしれません。「私の人生ぜんぜんいいことない。こんなことならクリスチャンにならなきゃよかった」という人もいます。「こんな結果なら祈らなければよかった」という人もいます。しかしはたしてそうでしょうか。
 
 神様は願いを聞いてくださいます。しかし、それは御心にそって聞いてくださるのです。もし、自分勝手な願いごとをいつも聞いて下さった、それこそ傲慢になり自分を神様とするような重大な罪に陥ってしまうでしょう。試練や聞き届けられない祈り、それは神様の愛がそうなさるのであって、私たちが道(キリスト)を踏み外さないようになさるのです。

2017年7月19日水曜日

有能な妻

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「有能な妻」

箴言 31:12 彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。

箴言の最終章は「有能な妻」についての格言で締めくくられています。人生における最大の幸福は、よき伴侶を見つけることだというのです。ここに登場する「有能な妻」は、料理や洗濯などの家事がよくできるというのではありません。彼女の働きは家の中の経済活動の中心です。生活全般の要の役割を担っています。そこでは、彼女がどのように生きているかが問われ、神様と共に生きる事が「有能」であると言います。

M.ルターの奥さんは、カテリーナ・フォン・ボラという人です。彼女は良妻とも悪妻ともいわれます。人々の記憶に残る働きをし、影響を与えた人だったのでしょう。だから、いろいろな伝説がのこり、人々が言い伝えてきたのだと思います。性格的には激しい人だったので悪妻などと揶揄されたのでしょう。しかし、最近発掘されたルターの家の地下台所からは、その生活ぶりや多くの人々の世話をしたカテリーナの働きの大きさがわかってきました。

私が感銘をうけた逸話は、ルターが宗教改革の動きに行き詰って塞ぎこんでいいた時、カテリーナが部屋に喪服をきて部屋にやってきます。ルターは「誰か天に召されたのか」と聞きます。すると彼女は「あなたのイエスさま・キリストが死んでいます」と言いました。ルターはハッとさせられ、それから宗教改革をより強く推進していくことになったという話です。カテリーナは、ルターにとってかけがえのない存在でした。

箴言は「彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない」と言います。これは妻だけのことではなく、夫も同じだと思います。お互いが神様を中心として結びあっているならば、そこには幸いがあります。夫婦関係だけでなく、家族でも、職場でも神様を中心として共に生きることの大切さを思います。

2017年7月18日火曜日

本気

クレヨン牧師のミニエッセイ
「本気」
 
 坂村真民さんの詩に「本気」というものがあります。

 本気になると
 世界が変わってくる
 自分が変わってくる
 
 変わってこなかったら
 まだ本気になってない証拠だ
 
 本気な恋
 本気な仕事
 
 ああ  
 人間一度
 こいつを  
 つかまんことには
 
 私たちはどれだけ「宣教」に本気でしょうか。いま本気になりつつある自分を感じています。主イエスに導かれて変わっていくことが感謝です。
 

2017年7月17日月曜日

小さな存在の中に知恵

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「小さな存在の中に知恵」

箴言 30:25 蟻の一族は力はないが、夏の間にパンを備える。

六日市集会への道には蛍の道があり、蛍がたくさんいます。ローマ・カトリックの祈りで「蛍の祈り」というものがあります。

 「神様。ほんの少しだけ あなたの光りを 遠ざけてくださいませんか?

      わたしはこんなに小さい 消し炭みたいなものですから

      どうしても 夜がこないことには・・・

      闇の中なら わたしの心は勇気をふるって

      希望の星をほのかにきらめかせるでしょう。

      そして どんな貧しさの中にひそむ この小さなよろこびを

      人々の心に伝えることができるでしょう」

 ひとつの蛍の光りはちいさいものですが、多くなれば山全体がクリスマスツリ-となります。

箴言30章は「アグルの言葉」となっています。しかしこのアグルという人物が何者で、どこまでがアグルの言葉なのかはっきりしません。冒頭には「神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた」とアグルは言います。アグルが神様の知恵を探し求めたが、結局はわからなかったということです。しかし、神様が作られた小さな存在の中に「知恵」を見つけたということでしょうか。

「黒い絨毯」という映画がありました。アマゾンを舞台にした、恋愛映画のような不思議な物語でした。アマゾンで農地を開拓し大金持ちになった主人公が、アマゾンにいる蟻と戦ってすべての財産をなくすというストーリーでした。その蟻の描き方は、1匹から始まって最後には全てを食いつくす集団として出てきます。山中に広がった様子が「黒い絨毯」と呼ばれていました。この蟻は、実存するらしいのですが、まずは1匹の偵察蟻が集落に紛れ込みます。そこに食べ物があれば数日後には何百万・何千万の大群となって押し寄せてきます。そして財産を食いつくされる。映画は、主人公の男性がこの蟻と戦い全てを無くすが、最後に奥さんに言うのです。「あなたに与えるものは愛しか残らなかった」と。

箴言は「蟻」「岩狸」「いなご」「やもり」という小さな存在のなかに「知恵」を見ています。どんなに小さな集団であっても、そこに「知恵」があれば、大きな存在となるのです。神様はそのような「知恵」をすべての人に与えておられます。私たちも小さな存在かもしれませんが、そこに神様からの「知恵」があるとき、その働きは神様の働きとして大きなものになると教えられます。

2017年7月15日土曜日

気ままな休日・木村のあられ

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子どものころから大好きなお菓子って何?
   それは「色紙」ですよね。この塩っけがたまりません。小さいころはこれをよくなめてましたね。
   ブルボンの羽衣あられで代用してきましたが。熊本に帰ってきたら木村のあられですよね。
   やっぱり故郷にいるっていいな~

2017年7月13日木曜日

宣教のビジョンは

クレヨン牧師のミニエッセイ

宣教のビジョンは」
 
 「第一回伝道セミナー」に参加してきました。学ぶことの多いセミナーでした。一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。
 
 宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。
 
 さて、今回のセミナーでわかったことは、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということでした。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。
 
 二十人くらおの家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。
 
百人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。
 
 この教会の皆さんのビジョンは何ですか。祈ってそのビジョンを与えられたいと思います。ビジョンは大きいほど、神様の恵みは豊かにあります。

2017年7月12日水曜日

冷静になって

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「冷静になって」

箴言 29:11 愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。

雑誌で会社内でのトラブル相談という特集記事を読みました。多くは上司に対する不満が多く、理不尽に感情的になる上司に対してどう対処するかというものです。多くの回答が「まともに相手にしないことです。まともに相手にしたら、あなたの品格が下がります」というものが多かったです。人間の心理からいえば、感情的に発言された言葉はほとんど聞かれていないという調査があります。何回も感情的になって上司が怒鳴っても聞かれてないのは、言葉が届いてないから。だから同じことを繰り返すだけだと。そう思えば「まともに相手にしないことです」という回答の意味はそこにあります。

箴言29章では、教育の限界をのべています。いくら教師から忠告をうけ、懲らしめられても聞き従わない者(頑固者)がいる。現代風にいえば、つっぱる生徒に教師はお手上げの状態になることがあるというのです。そのような時に教師はどうするか?まずは教師から「冷静になれ」と教えています。

風邪の治し方は、昔からいろいろあります。野菜ジュ-スを飲むといいとか、ニンニクをすりりおろして水に溶きうがいをする、卵酒、熱湯に入れたレモンを飲む、足を熱いお湯につける、山芋シップ、梅干しの黒焼き・・・。それほど風邪は治しにくいというか、治し方が見つからない病気かもしれません。風邪は万病のもと、なんとか早く治しておかなければなりません。それでは何が一番よい方法かといえば、それぞれです。ある有名な風邪博士のお医者さんたちに、「あなたが風邪をひいたらどうしますか?」と質問しました。全員が同じ答えだったそうです。「安静にして寝る」。人間には自分で治す力が備えられています。そのように神様が守っていてくださるのです。風邪をひいたときは、神様が「安静にしてなさい」といメッセ-ジを送られているのです。

箴言は「愚か者は自分の感情をさらけ出す」とあります。感情をさらけ出す愚かさは、それが相手に伝わらないからです。「知恵ある人はそれを制し静める」とは、本当に伝えたいならば自分を静めること。冷静になって伝える努力をすることなのでしょう。感情的な言葉では伝わらないけれど、静かに諭されたとき伝わることが多いことを箴言は静かに語りかけています。

2017年7月11日火曜日

父の恋愛小説

クレヨン牧師のミニエッセイ
「父の恋愛小説」
 
 祖母の葬儀に出てきました。八十七歳でした。葬儀が終わってから到着したのものですから、行ったときには思い出話で賑やかでした。
 
 さて、いろいろな思い出が話されるなかで、拙著「神様のクレヨン」の話になりました。皆さんがいうには、私が父の血をひいているというのです。そして突然、父の弟にあたる叔父が「そういえば、兄は小説を書いていた。たしかあれは恋愛小説だったよ」というのです。
 
 父が小説を書いていたなんて、ちっともしりませんでした。そしてまさかそれが恋愛小説とは思いもしませんでした。その小説をぜひとも読んでみたくてしかたありません。本当の父と会えるような思いがするのです。
 
 私たちは直接イエス様と出会うことはできません。しかし、弟子たちがイエス様の言葉や行いを書き残してくれました。それを読むごとに、イエス様と出会うことができます。イエス様のお言葉のひとつひとつが、その体のぬくもりを通して語りかけきてくださるのです。
 
 父の「恋愛小説」を探してみようと思います。父が何を考えて、何を思い続けてきたのか。私にとって父と出会うことは、キリストと出会うことでもあると思います。