2017年6月23日金曜日

阿久根・大江教会合同礼拝

阿久根教会・大江教会合同礼拝
6月18日に合同礼拝が行われました。
鹿児島と熊本の教会が一つになりました。
 


2017年6月22日木曜日

誤り迷いが大切

クレヨン牧師のミニエッセイ

「誤り迷いが大切」
 
 「この頃、数学教育で、なにより憂慮されることは、解答が誤りとわかると、すぐに全部を消してしまう生徒が増えたことだ」と、数学者の森毅さんが指摘されていました。
 
 私たちは人生の中で誤ることは多々あります。また、わからなく迷うことも多々あります。大切なことは、どこで誤ったか、何に迷ったかを知ることです。誤りや迷いを全部消してしまっては、それを知ることはできないという意味でしょう。
 
 私たちの信仰生活でも同じだといえます。自分はどこで迷ったか、誤ったかをはっきり知らせてくれるのが「聖書(みことば)」です。自分の失敗を知れば知るほど、神様の愛がよくわかります。自分の愚かさを示されれば示されるほど十字架の愛がわかります。しかし、それを隠そうとしたとき。すでに神様から離れているのです。

2017年6月21日水曜日

道の初めに

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「道の初めに」

箴言 22:6 若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。

ティリヒという神学者が、「教育の神学」の中で現代の学校の問題として次のように述べています。「学校教育の問題は、いままで子供が問うてもいないことに、答えを与えねばならないことである」。この学校とは教会学校であり、宗教教育であると言えます。つまり、神とは何か、キリストとは誰か、愛とは何か、生きるとは、信仰とは、といった問いを子供たちが持つまえに答えを上から下へ与えているということです。問いを持つまえに答えを押しつける。問うことをさせない。答えが答えとして受け取られるには、問いを問うことが必要だといっています。教育って本当に難しいです。

箴言は教育の書とも言われています。若者が道に迷わないように、また子どもたちが確実な道を歩むようにと願う格言も多いです。とくに教育に関しては、曲がった道を歩むのは、道が曲がっているのではなく、曲がった心の者が教えるから道が曲がると教えているようです。

日本人としてはじめて中国シンクロチームのコーチとなった、井村雅代さんの本を読みました。中国チームは北京オリンピックで、中国としてはじめて銅メダルを獲得しました。井村コーチは日本人としてはじめて外国のチームのコーチと成られた方です。彼女がまず中国チームの若者たちに教えたのは、「挨拶」「愛想笑い」「ありがとう」の3つだそうです。「シンクロ協議は水の中だけの協議ではなく、会場に入って出るまでのすべてが採点の対象である」と書いてありました。いつも見られているという認識と、空気を見方につけなければ世界に通用しないというのです。中国チームにはお国柄でしょうか「愛想笑い」というものがなく、挨拶やありがとうの言葉も少なかったといいます。だからこそ、選手と言う前に人としての問題から教育したのだと。北京オリンピックで銅メダルをとった中国チームの背景が少しわかりました。教育はじめに何を置くかだったのだと思います。

箴言は「若者を歩むべき道の初めに教育せよ」と言います。道の初めにどんな教育を受けるかは大切です。若者は年老いてもその道を歩いていかねばならないからです。若者は道の初めに誰と出会うか、何を聞くか、そして何を信じるか。教会学校や、教会教育にあたるものは、すべては神様のみ言葉に立って行うということを求められます。そこに若者を導く知恵があるのです。

2017年6月20日火曜日

結婚式の恵み

クレヨン牧師のミニエッセイ
「結婚式の恵」
 
 結婚式の献金を「宣教基金」とすることを決めてから、結婚式の申込の多さにビックリしています。「宣教基金」をどのように使用するのか祈りを結集し、神様の御心を聞くことが大切だと身が引き締まります。
 
 とはいっても、結婚式自体が宣教ですから、結婚式が御言葉に立つものとなる祈りも必要です。つまり、どれだけ主イエス・キリストにあって誠実にかかわることができるかです。
 
 神様はそんな私たちに、素晴らしい結婚式を与えてくださっています。二人だけの結婚式がありました。神様の前で約束を真剣に求めている二人でした。そして今回、またまた素晴らしい結婚式を三月に与えてくださったのです。それは二組同時結婚式です。兄妹の二組のカップルが結婚式を同時にされることになりました。
 
 新郎であるお兄さんは、もう何回も教会にこられました。そして、いつも何か言い出そうとして帰られるのでした。そして、やっと言われたことは、「私は十人兄弟の九番目です。一番下は妹がいます。もう結婚して一年になるのですが、事情で式を挙げてません。私たちの結婚式にいっしょにできないでしょうか」でした。感動いたしました。そして神様に感謝しました。しかももっと感動したのは、それを願われたのは新郎さんではなく、新婦さんだったのです。
 
 結婚式は宣教です。そこから私たちも神様の恵みをいただくのです。
 

2017年6月19日月曜日

何か一つを

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「何かを一つ」

箴言 20:24 人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。

死刑囚の記録だけを集めた本があります。裁判で死刑の判決をうけ、絞首台の階段を上るまでの、ある者にとっては長い、またある者にとっては短い「待っている」時間の記録です。その中に一人の男性の記録がありました。その男性はある日突然、花を生けはじめたのでした。といっても、単に粗末な花瓶に一輪の花を生けはじめたのです。しかしそれ以来、死刑囚特有の無気力な凶暴さからうってかわって、見違えるほどに元気になったそうです。死刑の直前、その訳を尋ねた看守に、その男性は言いました。「仕事がある。明日起きたら花ビンの水を取り変えるという仕事がある。夜寝るとき私はそう思いました。だから少なくとも明日は生きていける」と。何か1歩でも歩むことができるということは希望を生むのだと思います。

箴言の20章には、心の中にある深い知恵について語る箇所があります。5節「思い計らいは人の心の中の深い水」という表現で出てきます。これは汲みだすことが難しいということです。心の中にある隠された計画は、他人にはよくわからない。しかし、賢者はそれを見つけ出すことができる。その賢者とは神様と共に歩む者だというのです。

あるスポーツのコーチが指導方法について書いていました。選手が壁にぶつかった時はどうするかということです。選手が全然うまくならないときがある。その時は「なんでうまくならないのだろう」と悩みます。そんな時にコーチは「でも今日はひとつだけ、何かを上手にして帰らそう」と思うのだそうです。そしたらいつかうまくいく。家が片付かなくて途方に暮れる時、パニックになってもしょうがない。そんな時は何も考えずに、何かを一つ動かす。するといつかは片付くのだと。立ち止まるのではなく、一歩でもいいから前へ進むことだと言うのです。

箴言は「人の一歩一歩を定めるのは主である」といいます。人間はどこへ行くのか、自分の道についても理解してはいない。しかし、神様は人がどこへ行くかを知っておられるのです。またその一歩を定めるのも神様なのです。この神様に信頼し、勇気をもって一歩踏み出す時に新しい道が開けてくるのだと言えます。行き詰った状況の中でそれを解決するには、神様を信頼して今日一歩を踏み出すことなのです。

2017年6月17日土曜日

気ままな休日・母のオムレツ

これは大好物
母が作ってくれる、ポテトサラダが包んである
オムレツです。かなら美味しいです。

2017年6月16日金曜日

納骨堂にステンド

鹿児島教会納骨堂に
ステンドグラスを入れました。
皆さんの休むところは気持ちよく。
換気扇も取り付けて、なかなかオシャレです。

2017年6月15日木曜日

宣教の力を

クレヨン牧師のミニエッセイ

「宣教の力を信じる」
 
 神様がこの教会に託されている「宣教の力」は、いったいどのくらいあるのでしょうか。私としては底知れぬものがあると実感しています。ところが、まだまだ教会の礼拝は空席の方が多い。なぜでしょうか。その責任は神様にあるのでしょうか。神様の「宣教の力」を信じ、全てを捧げることのできない私たちに責任はあるのです。
 
 「できることしかできない」との言葉を良く聞きます。しかし、神様の宣教の前では、その言葉は通用しません。できないことをも要求されるのが神様なのです。つまり、神様ができると言われることを、私たちができないとはいえないのです。
 
 神様は私たちの信仰によって、底知れぬ「宣教の力」を与えておられます。この教会に遣わされて七年目がやってきました。牧師としてこの六年間「宣教の力」をどれほど信じてきたかを振り返ったとき、信じてなかったことを告白せねばなりません。
 
 この教会にとって今の状態は、あの放蕩息子のように神様の財産を食いつぶしているようなものかもしれません。一人一人の信徒・牧師が神様の十字架の前にひれ伏して、赦しをいただかねばなりません。今年「宣教する教会」は、十字架の前にひれ伏すことから始めます。(

2017年6月14日水曜日

主の御旨が

阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
「主の御旨のみが」

箴言 19:21 人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。

夏の予定でパニックになったことがあります。なんでもOK,OKと引き受けてしまい、後で予定をみてでビックリ。なんとその年の8月は、教会にいる時間は5日しかなかったのです。たとえば、「ミッション系高校の修養会」の講師。それが終わって「インドネシアのバタック教会宣教九十年大会」でインドネシアへ。「名古屋地区伝道修養会」の講師として招かれ。それだけならまだしも、AVACO紙芝居の脚本の執筆、児童説教集「おはなしがいっぱい」の執筆、全国聖書日課執筆と締切がすべて8月でした。計画性のなさからこうなったのかと反省しました。

箴言19章も知恵の薦めが続きます。格言集ですから様々な角度からの教えが示されています。この章の冒頭では「唇の曲がった愚か者」という言葉があります。これは語る言葉が曲がっているということで、言葉の中に嘘があるということです。つまり言葉の中に嘘があるのは、誠実でないということです。神様に対して、隣人に対して誠実さをもって、人は生きて行くべきだと言うのです。

ある時「計画は計画であって、その通り実行されるかは別の問題」と言われました。それを聞いたときは「それじゃ計画しても意味がない」と思いました。またある人からは「無計画という計画もある」と聞いたことがあります。それは不誠実だろうと感じました。完璧な計画を作った所で、それが実現するかどうかは誰にもわからないということは理解できます。すべての計画が狂うときや、うまくいかない時があります。そんな時に教えられることは「いまは神様のなさることをみていよう」ということです。

箴言は「人の心には多くの計らいがある」といいます。誰でも多くの計画をもっています。それは人生計画であったり、家族の生き方計画であったり。また金銭の計画、旅行の計画などもあります。もちろん教会も計画をもっています。そこで箴言があえて教えているのは「主の御旨のみが実現する」ということです。自分勝手な計画をいくら立てても実現はしません。それが主の御旨にかなっているかどうかです。どうすれば主の御旨がわかるか。祈りつつ神様のなさることを見ているしかないかもしれません。しかし、主の御旨にかなうことは必ず実現するのです。

2017年6月12日月曜日

口答え

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「口答え」

箴言 18:13 聞き従う前に口答えをする者、無知と恥は彼のため。

久し振りにデパ-トへいき、多くの人がごった返していました。このような時は迷子が多いとみえて、ある売り場の方が二才位の男の子に話しかけておられました。その会話を聞きながら、さまざまな事を連想しました。さてその会話ですが、売り子さんが「あなたの名前は?」と聞くと、子供はきまって「ウルトラマン」としか言いません。その子供は何を聞いても「ウルトラマン」としか言えなかったのです。困った売り子さんは、「お父さんの名前は?」と聞きました。でもやっぱり「ウルトラマン」なのです。それでは「お母さんの名前は?」と聞いたところすぐに答えました。「うるさい」。多分この子供はお母さんに、ガミガミと言われているのでしょうか。お母さんを一言でいうと「うるさい」に集約できるのは、さみしいことですが。

箴言18章は、神様から離反する者に対する忠告からはじまります。神様から離反するとは、自己中心的で周囲から離れて行く者のことです。自己中心的な者、利己的な者が人々の間に争いをもたらすと教えます。集団生活において、自己中心、利己的ということは、神様から離反を意味しています。そこから「口答え」ということが述べられているのです。

ネットで「口答え」を検索していたら次のような記事がありました。「不適切なクレーム対応にお客様がキレた」というものです。それは「野菜が生だ」とクレームを言う客に「いつもこうです」と返答したら、「この店の教育はなってない」と店長を呼びつけて強く叱ったと言う話です。この場合、賢い選択は「指摘のあった料理を作りなおす」ということで、「野菜が生だと」と言っている客は「もっと火を通したものが食べたい」と思っているのだと考える。そしてそれを提供する。ところが、この記事にネットで火がついて「ごね得ニッポン」「過剰サービスに慣れ過ぎ。その負担は自分らバイトにまわってくる」など釈然としない書き込みが多く寄せられたというのです。そちらも一理あるなと思ってしまいました。

箴言は「聞き従う前に口答えをする者」と言っています。まずはその人が何をいっているのか「聞くこと」が大切だと教えています。そして「従う」ということ。この「従う」を間違えてはいけないと思います。神様に従って聞くということが知恵なのです。その視点からみれば、箴言の言葉は神様に聞き従う前にと読めないでしょうか。

2017年6月9日金曜日

鹿児島教会が変わる

鹿児島教会礼拝堂が変わります。
聖餐卓を設置ました。
さらに聖壇を整えております。
ぜひお越しください。

2017年6月8日木曜日

いなくては

クレヨン牧師のミニエッセイ

「いなくては・・・」
 
 人間はだいたい五種類に分けられるのだそうです。なんでもこの分け方をしたのはお釈迦さんだと伝えられています。さてその五種類とは・・・。
 
 一、いなくてはいけない人
 
 二、いた方がいい人
 
 三、いても、いなくてもいい人
 
 四、いない方がいい人
 
 五、死んだ方がいい人
 
 なんと過酷な分け方だろうかと思います。これはあくまでも自分はどうあるかを振り返るためのものです。あの人はどうかと考えるならば、それは本意ではありません。
 
 さて、主イエスにとって、あなたはどんな人ですか。たぶん、主イエスによっては、「一、いなくてはいけない人」しかないと言えます。あなたのために十字架にかかってくださったのですから。教会にとっても「一」しかありません。しかし、自分でそれを知ることが大切なのです。主イエスはいつでもあなたのことを待っておられるのです。

2017年6月7日水曜日

水一滴から


阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
「水の一滴から」

箴言 17:14 いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。

花 八木重吉  花はなぜうつくしいか  ひとすじの気持で咲いているからだ

暑い日がつづいています。夏だから仕方のないことですが、やっぱり早く涼しくなって欲しいと思います。そんなとき、牧師館の横にある日々草が太陽にむかって咲いている姿をみて、「ひとすじ」の気持が伝わってきました。夏の予定も先が見え、秋へとすすんでまいります。秋にはどんな花が、「ひとすじ」の気持で咲いてくれるか楽しみです。またそのような花をこの世に造ってくださった神様に感謝する時にしたいと思います。 神様が造られたものは、「ひとすじ」の時が美しいのです。ささやかな感謝から今日もスタートしたいと思います。

箴言の記述法には「比較の詞」が多くあります。2つを並べて比較させ、どちらを選ぶのかを提示しているようです。この「選び」とうのは、聖書のテーマでもあります。新約聖書の中にイエス様の有名な言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ1516)。選びとは神様の出来事でもあります。箴言では、神様の御心に従ってどちらを選ぶのかを問われているようです。

小学生の頃「川の源流を探る旅」に参加したことがあります。朝5時に河口である海に集まり、車や徒歩で川を遡っていくのです。大きかった川が少しずつ小さくなり、小川になっていくがとても不思議でした。最終的には山の奥にある、水が岩から滴り落ちるところまでいきました。その時に、先生が河口の写真をみせて「大きな川もこの一滴にはじまる」ということを教えてくださいました。いまでも鮮明に覚えている出来事の一つです。

箴言は「いさかいの始めは水の漏り始め」と教えています。この漏り始めも一滴からです。わずかなことが大きな事へと発展していきます。どとすると、始めの水漏りの一滴に心をくばることを教えているのです。先人たちの知恵というのは、歴史をとおして長く伝えられていくものだと思います。

2017年6月6日火曜日

いなくては

クレヨン牧師の実のエッセイ

「いなくては・・・」
 
 人間はだいたい五種類に分けられるのだそうです。なんでもこの分け方をしたのはお釈迦さんだと伝えられています。さてその五種類とは・・・。
 
 一、いなくてはいけない人
 
 二、いた方がいい人
 
 三、いても、いなくてもいい人
 
 四、いない方がいい人
 
 五、死んだ方がいい人
 
 なんと過酷な分け方だろうかと思います。これはあくまでも自分はどうあるかを振り返るためのものです。あの人はどうかと考えるならば、それは本意ではありません。
 
 さて、主イエスにとって、あなたはどんな人ですか。たぶん、主イエスによっては、「一、いなくてはいけない人」しかないと言えます。あなたのために十字架にかかってくださったのですから。教会にとっても「一」しかありません。しかし、自分でそれを知ることが大切なのです。主イエスはいつでもあなたのことを待っておられるのです。

2017年6月5日月曜日

毅然無礼

阿久根ルター君の朝のみ言葉

慇懃無礼と応答」

箴言 15:1 柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。

「慇懃無礼」という言葉があります。表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を見下し馬鹿にしていること。またはそういう行為と国語辞典にはかいてありました。ただこの言葉の本当の意味は何かを考えています。大企業などがクレーマーに対して謝罪を行う場合、行き過ぎてこのような状態に陥りやすいので注意が必要と言われます。また、個人の間ではプライドが高く尊大で自意識過剰な人間が、丁寧な口調や文体で他人に対し議論や謝罪を行う場合に、このような態度?が見られる場合があるとも。意図的に行うものと、無意識に行うものがおり、判断に苦しむ行為であるというのが正解のようです。人間関係によって、無礼になったり丁寧になったりするのでしょう。この言葉は関係の上になりたっているものです。

箴言15章はひきつづき生活の知恵、格言がかかれてあります。その中でも特徴的なことは3節です。「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる」と教えています。人間はつねに神様との関係の中で生きているというのです。神様との関係のなかで、人と人の関係もまた与えられています。

私たちの脳は、右脳と左脳とでは働きが違うといわれています。いわば分業をしているとか。左の大脳半球は言語脳といわれ、言葉を話したり、読み、書き、計算、分析などの担当です。これに対して右の大脳半球は感性脳といわれ、音楽や美術を鑑賞したり、直感のような感性の担当です。たとえば、ある同じ音楽を二人に聞かせる。一人は作曲家、一人はただの音楽好き。聞かせながら脳の断層写真をとると、作曲家は左脳に多く血液がながれ、ただの音楽好きは右脳に多くの血液が流れるのだそうです。曲を分析する作曲家とただ演奏に浸っている音楽好きの違いなのでしょう。信仰はどちらの担当でしょうか。実は右脳なのだそうです。つまり、悩み悲しみを理解するこころの優しさという感性が、信じることへの道を開いていくのでしょう。やっぱり信仰とは分析ではないのです。それを越えたところの感性に神様が働きかけてくださるのです。知的なところよりも大切なもの、そこに信仰の働きがある。その深いものを各自が与えられているのです。

箴言は「柔らかな応答は憤りを静め」と言っています。大切なことは「応答」ということです。言葉が慇懃無礼になるのは一方的だからです。「傷つける言葉は怒りをあおる」からもわかるように、そのような言葉は一方的なものなのです。イエス様は多くの人々と対話をされました。応答しておられます。言葉の中心に信仰をもって応答することが求められているのかもしれません。

2017年6月3日土曜日

きままな休日・石巻はらこ飯

被災地での支援活動のとき気になっていたお店「湖月亭」。
   そのご何度も石巻を訪れては、このお店の「はらこ飯」をいただいています。
   九州育ちの私にとって鮭はごちそう。しかもイクラまで。
   これが釜飯になっている。お刺身もついて安いんだから。
   それよりも、石巻の風土と人の温かさを感じながら食べるはらこ飯はいつだって最高なんです!
IMG_6999

2017年6月1日木曜日

張り紙に

クレヨン牧師のミニエッセイ

「貼り紙に教えられ」
 
 子どもを叱りながら、いつも心に思うことがあります。それは、「なんでこんなにイライラしているのだろう」ということです。普段なら許せることが許せない。止めよう止めなければと思いつつも、エスカレートしてくるのです。そんな時ほどイヤな嫌悪感に打ちのめされるのです。
 
 先週の金曜日でした。いつものように嫌悪感に落ち込む叱り方をしたので、礼拝堂で祈っていました。神様に懺悔をして家に帰りますと扉に手紙があってありました。皆さんはこれを読むことができますか。
 
 解説すると、「おとうさん、このおうちはおこったらはいらないでね」だと思います。私はこの貼り紙をみてなぜか涙がでてきました。ここは牧師館だった。ここは神様の家なんだと実感させられたのです。自分のイライラや、自分中心の怒りがどれだけ人を傷つけるかを教えていただきました。教会・牧師館は神様に聖別された場所です。同じようにみなさんのお宅も神様に聖別された場所です。そこを汚すために社会のいろいろな誘惑が襲ってきます。しかし、そこは聖霊の家なのです。その聖霊の働きがあるからこそ、私たちは守られて生きていくのです。

2017年5月31日水曜日

どのフレームで

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「どのフレームで見るか」

箴言14:4 牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力。

うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ    

 良寛晩年の良寛が死をまえに詠んだもの(正確にはひとのうた)であるといわれています。最も当時の良寛のこころを現わしているものだといえます。死をまえにして、自分の良いところも悪いところもさらけだして生きてきた、思い残すことはなにもないということです。私たちは良いところも悪いところも同様にもっています。しかしどうしても、良いところだけしかみなかったり、また悪いところは隠そうとしたり、気づかないようにしています。神様は私たちのどこを見ておられるのでしょうか。きっと両方だと思います。良いところも悪いところも、私たち自身のすべてを見てゆるし、しかもそんな私たち一人一人を大切に思っておられるのです。うらも、おもても、神様にとってみれば一人の愛すべき子供です。だからこそありのままで救われるのです。

箴言144節には農耕に関した格言がでてきます。旧約聖書では王国時代の初期の頃に、牛による農作業がその生産力をあげています。今日の格言は、そのような時代の中で作られています。自分たちの生活の中で、どこに自分の視点をおくかということです。どちらに視点をおいても根本の出来事はかわらないが、視点をかえることで受け取り方は正反対になってしまいます。

心理療法の中に「リフレーミング」というものがあります。枠組みをかえてみるということです。その中に海外に住む一人の婦人の話がありました。彼女は神経質で綺麗好きのため、部屋が汚れるのを極端に嫌っていました。とくに部屋のカーペットが汚れるのが、彼女にとって大変な苦痛でした。またそのことで彼女は精神を病む結果にもつながりました。ある時、医者から「リフレーミング」の話をききます。それはカーペットが汚れるのではなく、人がそれだけ多く歩いているから汚れると見方を変えることでした。人がそこに住んで交わりがあるということへと見方を変えさせられたのです。それは彼女にとって素晴らしい発見となり、その後元気を回復していったというのです。

箴言は「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力」と教えています。ここでも見方を変えることを教えられます。このように考えると、人生における試練や苦しみも、実は神様に出会うためのものであると考えることができます。いま自分に起こっていることを神様の視点というフレームで見る時、いったいどのようにみえてくるのでしょうか。神様の視点は愛というフレームでみるということです。

2017年5月30日火曜日

戒語

クレヨン牧師のミニエッセイ

「戒語としてのイエス様」
 
 「良寛は己に厳しくには優しかった。不機嫌な顔を見せたことがなく、いつも優しい微笑みを欠かさなかった」と、ある本で読みました。実を言えば、私は良寛さんと一休さんが大好きです。このような僧侶にはなれそうもありませんが、どれだけ近づけるかが私の課題でもあります。
 
 さてその良寛さんには「戒語」といわれるものがあります。ひそかに自分で戒めとして作り、常々自分に言い聞かせていたそうです。紙に書くのも恥ずかしいと、囲暖炉の灰の上に書いてはそれをながめ、消してはまた書いていたそうです。その「戒語」はたくさんありますが、少し紹介いたします。
 
 一、言葉の多き
 
 一、口の早さ
 
 一、問わず語り
 
 一、さし出口
 
 一、人のもの言いきらぬうちにものを言う
 
 一、よく心得ぬことを人に教える
 
 一、人の話の邪魔をする
 
 一、親切らしくものを言う
 
 一、たやすく約束をする
 
 良寛はどれもこれも自分の姿だと言います。私たちはどうでしょうか。しかし、私たちには「戒語」としての主イエスがおられます。その主イエスは戒めだけでなく、そこから救いも問いかけて下さるのです。

2017年5月29日月曜日

誰と共に歩く

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「誰と共に歩くの」

箴言 13:20 知恵ある者と共に歩けば知恵を得、愚か者と交われば災いに遭う。

エクササイズ本の中でメトカーフという人が、「生身の人間であれバーチャルなものであれ、サポートしてくれる存在を持つことが成功の秘訣だ」と書いています。彼は、「自分自身の力だけで減量できる人は10人に1人だが、仲間のサポートがあれば10人に7人は減量できるようになる」と説明していました。初めからペースを上げることはせず、プロのトレーナーに頼り、ブログや電子メールで仲間に成果を報告するように勧めています。誰かが共に歩んでくれること、その人がどのように共に歩むかが大切なのでしょう。

箴言の13章は教育に関する格言です。「子は父の諭によって知恵を得る」という言葉から始まります。実はこの文には動詞がないので、翻訳には少し無理があります。あえて「父」を動詞の「愛する」に変更して、「賢い息子は諭を愛する」と翻訳している注解書もありました。父がどんな存在として共にあるか、それは子に知恵を与える者であることを示しているように思えます。

女子パウロ会の本に『動物の祈り』というものがあります。そのなかに「カメの祈り」もあります。「神様。どうかちょっとお待ちを。今まいります。私のお荷物は背負っていかねばなりません。別に好きこのんで背負ってるわけではないのですが・。いいえ、背中にのったこの家に不満なわけではありません。けっこう役に立つのですから。けれども主よ。おわかりくださるでしょうが年中運んで歩くとなるとなかなか重いものなのです。私に与えてくださったこの二重の束縛、甲羅と心の二重のかせゆえにあなたに対して心をとざすことがないようにいつも祈りつづけさせてください。ア-メン」私たちはこれが自分の祈りだというものを持っています。それは自分の弱さかもしれません。しかしそれを聞いてくださる神様も同時に持っているのです。

箴言は「知恵ある者と共に歩けば知恵を得る」と教えています。私たちは共に歩むときに、自分の心地よい人と歩むことを選びます。しかし、自分に心地よいだけではいけないのです。自分のことを本当に愛し、支え、時には忠告してくれる人と共に歩むことが必要です。イエス様が共に歩んで下さるということを考えてみたいと思います。

2017年5月27日土曜日

きままな休日・ベルリンのカレー

IMG_8297

ベルリンで食べた料理。
   う~ん、チキンカレーでしょう。
   でもカレーでない味がした。クリーム煮なのか。
   それでも美味しいのは間違いない。
ドイツ料理って素朴?いや何と表現していいやら~

2017年5月25日木曜日

使命と生命

クレヨン牧師のミニエッセイ

「使命と生命」
 
 「心にしみる名僧・名言逸話集」の前書きに、次のようなことが
 
書かれてありました。
 
 「人間が生まれたのには何か使命があるのだろう。使命とは、この自分の命を使うことであり、生命とはこの自己の命を生かすことだと気がついた」。
 
 この言葉の前にいま立ち止まっています。神様からいただいたこの命を使うとは、どのようなことでしょうか。また、この命を生かすにはどうしたらよいでしょうか。使命と生命。もし与えられた命を自分のためだけに使うとしたら・・・。そうありたくないと思います。神様と隣人のために私の与えられた命を使うとき、やっぱり私の命は生かされるのだと言えます。
 
 あなたの命が生かされましたか。主イエスはご自分の命を、私たち罪人のために十字架の上でお使いになられました。それによって主イエスの命だけでなく、私たちも命も生かしてくださったのです。
 

2017年5月24日水曜日

正しい行動を

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「正しい行動をとる」

箴言 11:5 無垢な人の慈善は、彼の道をまっすぐにする。

ここ数年のタイガーマスク現象(「第1号」はクリスマスの朝、群馬県中央児童相談所(前橋市)に届いた。玄関前に、包装紙にくるまれたランドセル10個(計30万円相当)が積まれていた。「伊達直人」という差出人名を聞き、「タイガーマスクでは」と気づいた。それが全国にひろがった)をうけて、精神科医はネットニュースの中で次のようにコメントをしていました。「児童虐待などで子どもに同情している人や、誰かを喜ばせたいと思う人が多いのだろう。素直に行動に移せなかった人がヒーローの名を借り、行動に移せたのかもしれない。ただ、物を置いていくのは一方的。『できることはありますか』と声に出し、自ら動くことで感謝されればより大きな喜びは得られる」と。この現象、人と人が双方向にかかわる動きに発展するかとニュースは問いかけていました。

箴言11章の3節から6節までは「慈善」をテーマに語られます。その「慈善」といっしょに何度も出てくる言葉は「まっすぐ」というものです。聖書では「正しい人」と訳されていますが、これも「まっすぐにする」という言葉です。正しい人は共同体の期待に応えて正しい行動をとる者であり、誠実にそれを実行するのです。共同体の期待に応えることに慈善の意味があります。

ある仮設住宅で「おすそわけプロジェクト」を行いました。「ルーテルおすそわけ」が口コミで広がっていました。第1回目のときは20名位の被災者の方がこられたのですが、ある時7は開始1時間以上前にすでに200名の方が待っておられました。この時「大変なことになった」と思いました。品数が少ないと思ったからです。これではみんなにいきわたりません。それでも計画通り実行しました。やっぱり一つもとることができない人もおられました。申し訳ない気持ちになっている女性会の方々の所に一人のおばあさんがこられました。被災者の方で99歳だそうです。彼女も1時間待ってなにも受け取ることができませんでした。おばあさんは女性会の方々に優しく言われました。「あんたたちは悪くないよ。遠くから物資をもってきてくれたのだから。もらう方も悪い。みんなでわけあってもらえばいきわたる。ひとりがたくさんとったからだよ」と。

東日本大震災から三年半が過ぎました。ルーテル教会も支援活動をしました。被災地での支援部しい配布、心のケアなど。これもまた「できることはありますか」との問いかけからはじまったことでした。神様の導きのもとで「まっすぐ」に行動することは何かを教えられたできごとでした。祈りとみ言葉によって正しい行動は導かれるのです。

2017年5月23日火曜日

あなたの神に

クレヨン牧師のミニエッセイ
「あなたの神に聞け」

 マカオにある観音堂の「おみくじ」は、よくあたると言われています。私も今回の旅行でひいてみました。この「おみくじ」のやりかたは日本のものとは少し違います。まず、百本くらいの棒が入った筒を渡されます。それを観音様の前に出て振るのです。つまり自分が抜き出すのではなく、振っているうちに一本だけがピョンと飛び出てくるのです。ただし聞きたいことは一つのみです。不思議ですが、すぐにピョンと出るときと、なかなか出ないときがあります。中国の友達にいわせれば、観音様も考えておられるのだとか。
 
 さて、同行したクリスチャンの友達がこの「おみくじ」に挑戦しました。するとこれまた不思議にすぐにピョンと出てきたのです。観音様もすぐにおこたえくださったということです。ところがその「おみくじ」をみてびっくり。そこにそこに書かれてあったことは、「あなたには神様がいる。だからあなたの神様に聞きなさい」と。
 
 「あなたの神に聞け」。そのとおりです。私たちには祈りがあるのです。主イエスに聞くことができるのです。祈りましょう。私は主イエスのためにどんな働き手となれるでしょうかと。その祈りを主イエスは待っておられるのです。

2017年5月22日月曜日

思慮深く語る

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「思慮深く語る」

箴言 12:18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。

「一言の重み」という言葉を聞いたことがあります。人はその一言で傷つき、一言で癒されるといいます。それがどんな言葉かはその人の状況や感情によって違います。「ありがとう」で救われたり、「ばか」で傷ついたりします。その人は何気なく言葉を発しているのかもしれませんが、届いたときにそれはまったく別の言葉として届くこともあるのです。だとすると、言葉は軽率にだすのでなく、思慮深くださねばなりません。その思慮深さとは、相手を考えることです。

箴言1216節以下は、自分が賢いものと思っている愚者と、本当の賢者とはどのような人かを対象にして語られています。愚者の特徴はなにか。それは自分の「いらだち」や「不機嫌」をそのままストレートに出す者と言われます。賢者は思慮深く、しっかり考えて行動し、言葉を語るというのです。

クルマの免許取り立てのときは、なにかと冷や汗がでてきます。とくに車庫入れなどは、のろのろやっていたのでは後車から、プップップ-と怒られてしまいます。先日あるファミリ-レストランの駐車場での出来事です。ランチをとりながら外を眺めていたところ、若葉マ-クの御年輩の女性がやってきました。さあ大変です。どうなることかと見守っていますと、すぐに車庫入れが終ってしまったのです。そのご女性が上手だったのかというとそうでもありません。実は誘導係のおじさんの慣れた誘導と、その言葉がすぐに終らせたのです。「うまいですよ。そのちょうし。OK、OK。ばっちりです」とニコニコ。おまけに終ったときには大拍手。車の中では万歳をしておられました。私まで拍手をしてしまいました。神様はいつもそうなんだと思います。「それでいいよ。それでいいよ。問題ない。問題ない」と。

箴言は「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」と教えています。軽率と知恵の違いはどこにあるのでしょうか。軽率と言う場合は、相手のことなどまったく構わないで口にだしてしまうということです。言葉の一つ一つに心をこめ、愛情をこめ、気持をこめるならば、それはきっと人を癒す言葉になることでしょう。知恵ある人は思慮深い人だと思います。

2017年5月21日日曜日

阿久根教会訪問ツアー

大江教会・鹿児島教会・阿久根教会は宣教協力をしています。
そこでお互いを訪問して元気をいただくツアーをしております。
今回は阿久根教会!そしてA-Zです。

2017年5月20日土曜日

きままな休日・ウエストのかき揚げ

18194668_10209324708736184_716918746096086630_n
   最近のうどん屋さんの特徴は、天ぷらが充実していること。
そして何よりかき揚げの大きさが半端ないこと。
   どこのかき揚げも大きいのです。
私は玉ねぎの天ぷらが大好物なので、かき揚げは大歓迎です。
   ウエストのかき揚げは昔から大きい。しかも海老がたっぷりはいいています。
これをそのまま食べるもよし、うどんに入れてもよし。
   美味しいものはなにやっても美味しいのです!