2017年10月12日木曜日

「同じ言葉でも」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「同じ言葉でも」
 
 若手牧師研修会が、長野県の松本教会で行われました。この会は現職の牧師たちの自主グループで、神学校を八四年から八八年に卒業した十二名の牧師で構成されています。ということはもう若手ではないかもしれません。
 
 この研修会はとても楽しい会でもあります。また勉強するのが好きな会でもあります。今年のテーマは「原罪論の復興」でした。しかし、なにより夜の情報交換が楽しくてしかたありませんでした。その夜の語らいのなかで、ある牧師が恋愛時代の話しをしてくれました。
 
 「神学生だった自分は純粋で手も握ったことがなかった。あるとき公園のベンチに座っていたときに、何か言わなければいけないような気がしていたけど言うことがなかった。それでも思い切って『今一つだね(いま心が一つになっているね)』と言った。するとしばらくして彼女は、悲しい顔をしながら『私っていまひとつなの?』と言ったんだよね」と話しておられました。みんなで大笑いしました。
 
 同じ言葉でも、伝わり方が違うと大変なことになってしまうものです。自分はそう思っていなくても、間違って伝わっていくことがあります。さて、私たちは主イエスのみ言葉を正確に聞いているでしょうか。正確に聞き取るには何度も聞き返すことしかなさそうです。

2017年10月11日水曜日

「骨髄まで響く」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「骨髄まで響く」

 マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者

進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。

 イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。

「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」

イエス様は自分が神様の子であること、神様の心に適う者であることを受けとめておられました。その骨髄にまで響く親の心をわかっておられます。その御心が十字架の死であっても、み心に添ってその道を歩まれたのです。神様は私たちも子としておられます。そのみ心は知ることを始めたいと思います。

2017年10月10日火曜日

「偉大な書家の色紙?」

クレヨン牧師のミニエッセイ


「偉大な書家の色紙?」
 
 結婚式に来られた方が、礼拝堂の扉の前で話している声が聞こえてきました。その声をきいて吹き出してしまったのです。その方たちはこのように話していたのです。
 
 「この色紙は誰の作品だろうね。はなみという書家がいたっけ」と。
 
 みなさんはお分かりでしょう。献金箱が盗まれてから、その場所がさみしくなったので、娘に「イエスさまおまもりください」と書いてもらった色紙なのです。(拙著「神様の色鉛筆」の裏表紙)
 
 さて改めて見直してみると、下手な字なのだけれどそれなりの味があることに気がつきました。そして見ているうちに、なんとなくそれらしく見えてきて感心してしまいました。素朴さというか、飾り気がないないというか。
 
 なぜ純粋さが伝わってくるのでしょうか。きっとそれは、人に認められたいとか、上手に書きたいとか、そのような気持ちがないからだといえます。娘は好きで書いているのです。たったそれだけのことなのです。
 
 私たちはなぜ主イエスに従うのでしょうか。「イエス様が好きだから」。それだけでよいと思います。まずそこからです。私たちの主イエスを思う純粋さが人を主イエスへと導いていくのです。

2017年10月9日月曜日

「深めていく愛」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「深めていく愛」

ユダ  1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。

 ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。

ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」

 私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。

2017年10月5日木曜日

「らしくしろ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「らしくしろ」
 
 一休禅師の逸話に次のようなものがあります。
 
 「あるとき一休さんが、めずらしく説法をするといいだした。人々は大喜び、いったいどんな話が聞けるのか楽しみに集まってきた。みなが集まり固唾をのんでまっていた。すると一休さんがでてきて、たった一言『らしくしろ』といわれた」。
 
 さすが一休さんだと感心してしまいました。つまり「らしくしろ」には主語がないのです。自分で考えて「それらしく生きろ」といわれたのではないでしょうか。
 
 しかし、この「それらしく生きろ」ということは、簡単なことではありません。私たちは「それらしく生きる」ことができないから迷うのです。立野は立野らしく生きようとしても、人のことが気になったり、そのために自分を造りかえようとしたりするのです。それならば主語を変えればいいのです。つまり「キリスト者らしく」生きようとしたらどうでしょう。もっとつっこんで「キリストのように」生きるとしたらどうでしょうか。
 
 私たちはキリストの足跡を一歩一歩たどっていくしかないのです。それが、「キリストにあって君は君自身でいたまえ」ということでしょうか。
 

2017年10月4日水曜日

「手伝わせてほしい」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「手伝わせてほしい」

 マルコ 10:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために

子どもたちが小さかった時のことです。私をのぞく家族がクリーニング屋さんに行きました。お店のおばちゃんが「今日は一番偉い人はどうしたの?」と聞きました。すると娘たちは一斉に家内を指さして、「ここにいるよ」と言ったそうです。それから30分は笑わせてもらったとお店のおばちゃんにあとで感謝されました。

イエス様の弟子達は「誰が一番偉いか」ということを、イエス様が十字架に渡される前の晩に議論していました。権力争いだったのでしょうか。王様としての栄光の時自分がどのような位置にいるか、心配だったのでしょうか。しかし、結果は全く違うことになりました。イエス様はそのとき「偉くなりたいものは、仕えるものになりなさい」と諭されたのです。私たちの中で一番偉いのは神様です。なぜなら、こんな私たちに、徹底的に仕えてくださるからです。しかも十字架までもお受けになって仕えてくださいます。その姿の前に私たちは、悔い改めと感謝をするのです。誰が自分に仕えてくださっているか。誰が自分のことを愛し、支えているかを私たちは知っています。だからこそ一番偉いのは神様だと告白できます。

「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。

 「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。教会の作業の中でも「させてほしい」を実現していきましょう。

2017年10月3日火曜日

「伝統の継承」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「伝統の継承」
 
 どんな小さな教会でも、伝統の継承というものがあります。伝統といえばおおげさですが、なにかしら伝わっているものがあるのです。
 
 八月に特別伝道で招かれた箱崎教会(ここは大きな教会ですが)では、バザーのうどんの作り方に伝統がありました。それは、特定された湯飲みで三杯の醤油をそそぎ、だしは鰹節と鯵ぶし、それに昆布はある一定の地域ものを使用し割合がこまかく指定してあるのだそうです。そして最後には真っ赤に焼いた火箸をだしにつっこみ一周させる。ただし、半周でジューといわなくなったら焼き方がたりない。かならず一周させることといった伝統が残っていました。
 
 なんとも微笑ましい限りです。その教会が守ってきた伝統は、受け継がれて新しい人々へと伝えられていくのです。そしてただ伝えられるだけでなく、信仰とともに伝えられていくのです。
 
 私たちの徳山教会は何を伝えていくのでしょうか。この教会はまだ若い教会です。これから伝統を築き上げていくことでしょう。なにが伝統として残っていくか楽しみですし、伝統を築き上げていく喜びがあります。
 
 信仰の継承。そんな堅苦しいことではありません。日々の信仰生活そのものが継承され、伝統となっていくのです。

2017年10月2日月曜日

「自分以外をみる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分以外をみる」

 フィリピ 2:4  めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

いろんな人と食事をしていると「自分流」ということを感じます。その人にとってはあたりまえのことでしょうが、とても不思議に見えることがあります。なんでも酢をかけて食べる人。カレーに醤油・ソースをドボドボかける人。とんかつに醤油をかける人。牛丼の肉よりも多く紅ショウガを入れる人・・・。自分にとってはあたりまえでも、人からみれば特殊というのがたくさんあります。このことが人に不快感をあたえなければいいのですが。共に生きていく、働くという場面においては「自分流」も少し見直していくことが大切かもしれません。

 パウロは「キリストを模範とせよ」というテーマで、自分のことだけでなく互いに思いを一つにと教えます。「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つ」にと強調しています。そのために必要なことは「へりくだる」ことです。互いに相手を自分より優れた者と考えなさいと教えるのです。共に生きていくには、自分勝手に生きるのではなく「互いにへりくだる」ことが必要であり、それはキリストが模範として示してくださったことだと言うのです。

 「どうして牧師に祈ってもらわんの」という言葉を、あらためて深く受けとめました。そういえば、「このために牧師先生祈ってください」とお願いされたことはあまりありません。私たちは祈りをお願いするということはあまりないのでしょうか。「それぞれ祈り方が違う」「祈りとはそんなものではない」「祈ってもどうにもならない」という言葉をよく聞きます。しかし、私たちは追いつめられ、どうしようもない状態になったら、祈らずにはおれないのです。祈りの力を知らない。祈ることの素晴らしさに気がついてないと思います。祈ることはキリスト者の命です。そして自分のことだけでなく、教会のために祈ることは、教会の命です。牧師のために祈ることは宣教の命です。自分のことばかりでなく、自分以外を考えて生きていきたいと思います。

 パウロはキリストを模範にといいます。そのキリストは「へりくだった」のだと。この「へりくだり」の心を互いに持つことが、自分以外をみることにつながります。

2017年9月28日木曜日

「教会の鍵」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「教会の鍵」
 
 「二十四時間教会の扉に鍵をかけない」ということは、私たちのこの地域への挑戦です。また神様への信頼でもあります。この信仰がいま問われています。
 
 献金が盗まれてしまいました。さらに続けて献金箱が盗まれてしまいました。二十四時間鍵をかけないことを始めたのは、五年前のことでした。それからいままで何も起こりませんでした。しかし、このことは覚悟の上でそうしてきたはずでした。
 
 いざ起こってみると、いろいろな意見が出てきます。「鍵をかけない教会に責任がある」「お金をこまめにあつめない牧師・役員に問題がある」「せめて牧師室だけは鍵をかけるべき」「盗んで下さいと置いてあることが問題だ」「教会を開放するのが間違い」「鍵はかけるべき」と。
 
 どれもこれももっともです。しかし、どれもこれも間違いです。私たちが鍵をかけないときめたのは、神様の働きのためでした。人のためではなかったはずです。人を誘惑に陥れるためでもありません。神様の栄光があらわれるためでした。
 
 「ほら、やっぱりそうなった」と思われるかもしれません。そう思われたら、教会のために祈ってください。まだしばらく鍵をかけずにいたいと思っています。

2017年9月27日水曜日

「命の言葉」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「命の言葉」

フィリピ 2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう

 「心にしみる名僧・名言逸話集」の前書きに、次のようなことが

書かれてありました。「人間が生まれたのには何か使命があるのだろう。使命とは、この自分の命を使うことであり、生命とはこの自己の命を生かすことだと気がついた」。この言葉の前にいま立ち止まっています。神様からいただいたこの命を使うとは、どのようなことでしょうか。また、この命を生かすにはどうしたらよいでしょうか。使命と生命。もし与えられた命を自分のためだけに使うとしたら・・・。そうありたくないと思います。神様と隣人のために私の与えられた命を使うとき、やっぱり私の命は生かされるのだと言えます。

 パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。言葉には命があるのです。心の振動・命を伝えるのが言葉です。「ありがとう」の一言が人を生かすのは、その「ありがとう」に心が込められているときです。私たちはイエス様から「命の言葉」をいただいています。その「命の言葉」がどんなときでも励まし、慰めを与えてくれるのです。その「命の言葉」を大切にすることがキリスト者の努めだと言えます。使命も生命も、その中止には神様のみ言葉があります。

何世紀もの昔、イギリスである王様が驚くような実験をしたそうです。それは生まれたばかりの赤ちゃん10人に対して、一言も言葉をかけなかったら成長して何語を話すかという実験です。大変残酷な実験だと思います。言葉による触れ合いをさせなかったというのです。さて、皆さんにはこの実験結果がどうなったかわかりますか。実は、赤ちゃんは2歳にならないうちにみんな死んでしまったのです。

 パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。私たちの人生は神様のみ言葉をしっかりと持つことによって生かされた人生となります。命の言葉を保つことによって使命が与えられます。今日は自分の言葉のひとつひとつに「命」を意識して過ごしてみたいと思います。

2017年9月26日火曜日

「祈ることを伝える」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「祈ることを伝える」
 
 夏休みに遊びすぎたのでしょうか。娘が三十九度の熱をだしてしまいました。いつもなら元気に飛び回っているのですが、さすがにぐったりしていました。こんなとき、親は無力なのだとつくづく思い知らされます。「お父さん苦しいよ」「頭が痛いよ」と訴えるのですが、その苦しみを何ともできません。変われるものなら変わりたい。そばにいて「苦しいね」「痛いね」といって頭をさすってあげるのが精一杯でした。
 
 ところが、神様は不思議な方法で助けてくれたのです。その方法は「祈り」でした。苦しみから助けて下さるのは神様です。そして祈るのは自分自身でしかないことに気がついたのです。
 
 父親として娘に伝えられることは、「お父さんは残念だけれど、あなたの苦しみを癒すことはできない。お医者さんに連れていくことはできるけれど、いまは真夜中だからそれもできない。でも、あなたにはイエス様が一緒にいてくれる。病気から救って下さるのはイエス様だよ。祈ってごらん。イエス様が助けてくださるとお父さんは信じているよ」ということだけでした。
 
 娘は泣きながら、自分の口で祈ったのです。「イエス様。苦しいです。痛いです。助けてください。アーメン」。すると熱は下がってしまったのです。私はなんて幸せな父親だろうと思いました。悩み苦しみのとき、神様に祈ることを娘に教えることができたのです。一番大切なことを伝えることができたのです。

2017年9月25日月曜日

「主が必要とされる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「主が必要とされる」

マルコ 11:3 『なぜ、そんなことをするのか』『主がお入り用なのです』

心理学者のユングがある書物のなかで、「人間の幸福の条件」として五つのことをあげています。第一に「健康」、第二に「自分でほどよいと思う程度のお金」、第三に「美しいことを知る能力」、第四に「人間関係」。そして最後の一つは「朝起きたときにやらねばならぬ仕事があること」です。はじめの三つはいつも言われることですが、あとの二つは軽視されていることです。ほんのわずかの働きでも、何か必要とされている。それが私たちを本当の幸福に結びつけるのです。

奉仕が私たちを幸福にしてくれるのは、こんな私でも必要とされているからです。

イエス様がいよいよエルサレムへ入場される場面です。神の子として、王としての入場ですからさぞかし華やかだったかといえば、そうではありません。この入場に必要とされたのは「子ロバ」でした。旧約聖書の預言の成就ということもありますが、「主が必要とされる」ということに注目したいと思います。

さて「いかに伝道するか」という講演会のお手伝いをしていると、帰りぎわに信徒の方から声をかけられることがあります。その中で多いのが「どうしてそんなに伝道しなければいけないのですか」という言葉です。はじめは、本気でおっしゃっているのだろうかと思いました。しかし、このように思っている人達が多いことに気がつきました。きっと、生活や仕事に忙しいのです。それに加えて伝道なんてとても出来ないと思っておられるのです。伝道はきついものだ、辛いものだ、時間がかかるものだ、お金がかかるものだ、という考えが多いのです。牧師からも同じことを聞きますから「どうしてそんなに伝道しなければ」となるのでしょう。そんなに数を増やさなくてもよいと。しかし、伝道は喜びの出来事を伝えることなのですが。
 
 なぜ伝道するか。答えは「主が望んでおられるから」です。これが本当の答えになっているかどうか疑問です。主が望んでおられても、「わたしにはできません」と答えているかもしれません。それでも「主は望んでおられる」のです。この教会での働きも主が望んでおられる働きです。そこに思いを集中してまいります。

2017年9月23日土曜日

気ままな休日・モーツアルトのランチ

広島にある
バッケン・モーツアルトのランチ
なかなかボリュームがあって
かなら美味しかったですよ!

2017年9月21日木曜日

「十字架の歳となって」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「十字架の歳となって」
 
 八月三十一日で「三十四歳」になりました。朝起きて鏡の前に立ち、不思議な感じがしました。自分がこんな歳になるなんて思ってもみなかったからです。しかも、実は主イエスの十字架の歳と重なったことがわかったからです。主イエスが宣教に立たれたのは、およそ三十歳だったと聖書に書かれてあります。それから三・四年が活動期間でしょうか。すると私の歳が十字架の時となります。主イエスがこの世で生活された歳まで生きてしまったという感慨があります。
 
 自分が十字架の歳になって思うのは、主イエスの成熟度のすさまじさです。やはり神の子イエスです。いままでは遠いイメージとして捉えていた十字架がすぐそこに感じられました。そして、主イエスは神様なのだという確信が与えられたのです。
 
 主イエスの救いは完全です。あの十字架で終わったわけではありません。すると、私達が主イエス以上に生かされているということは、主イエスの救いを完全に受け継いでいくことが役目なのだと言えます。それを、まだ主イエスを知らない方々へ伝えていくことなのです。
 
 新しい命としての「三十四歳」を迎えました。このとき、また再び新しい気持ちで宣教へと立ち上がる信仰を受けました。感謝。

2017年9月20日水曜日

「宣教は刈り入れ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「宣教は刈り入れ」

ヨハネ 4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。

教会の椅子をきちんと並べることが牧師の仕事」と、先輩の牧師に教えられました。その言葉を聞いて25年がたちます。まだ新卒だった私にはピンとこず、もっと大切なことがあると思っていました。牧師と召されて26年目を迎える頃になって、あの牧師の言葉がずっしり響いてくるのです。教会の椅子は礼拝が終ると乱れます。そのままにしてお茶を飲んでから並べればいいのですが、いつ誰がそこでお祈りされるかわかりません。神様にお祈りするとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。初めて教会にきてそのとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。そこに神聖さを感じるでしょうか。教会の椅子を並べることは、いつ誰が来られても神様と出会えるように配慮することだといえます。この配慮ができるか、宣教する教会とはそこに集う一人一人がそれをいつも考えていることです。

イエス様は『宣教は刈り入れである』。この視点は私を驚かせました。また、新しい宣教への夢を抱かせてくれました。 ある本のなかで、社会学者の方がこのことを指摘され、ピンと心にくるものがあったのです。 私たちは今まで教会の宣教を考える時、それは『種まき』だと考えてきました。ある意味ではそうやって自分達を慰めてきたのかもしれません。いつか芽がでるから、神様の計画のなかにあるからといっては御言葉の種を撒き続けることに主眼を置いてきたのです。

ところが、イエス様は宣教について『種まき』といわれたことはありません。ヨハネ福音書でも「あなたがたは自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」といわれているとおりです。種は十分まかれている。刈り入れもせずに、まだ種まきだといって何もしていないのではないかと思うことがあります。

教会の宣教は、種まきではなく刈り入れである。いったい刈り入れとは何でしょうか。神様の業がここにもあそこにも刈り入れを待っている。ミッション系の幼稚園、学校に通った方々の数はどれくらいでしょうか。キリスト教に一度でも触れたひとはどれくらいいるでしょうか。刈り入れをまっているのに、そこに届くみ言葉を語っているか。教会の敷居は高くないか。誰を招き、誰と共に生きていくのか。もういちど宣教について考えてみたいものです。

2017年9月19日火曜日

「復活を知る三歳」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「復活を知る三歳」
 
 旅行に行っている間に、金魚が全部死んでしまいました。ポンプが故障し水が腐ってしまったのでしょう。新しく飼った金魚でしたので、過保護にして餌をやりすぎたようです。
 
 さて、金魚が死んで一番悲しがったのは次女でした。死んだ金魚を大切にテッシュに包み、記念室の横に埋めにいきました。そして愛美は一人で祈ったのです。
 
 「神様。前に小鳥も死にました。金魚を死にました。どうか新しい命を与えて、また生きるようにしてください。祝福してください。イエス様によって。アーメン」。
 
 復活のことをいったい誰が教えたのでしょうか。死は終わりでなく、イエス様によって新しい命の始まりだと誰が教えたのでしょうか。きっと神様ご自身が愛美に語りかけてくださったのだと思います。
 
 私たちは神様のことを学ぶのに、難しい神学を学ばなければ理解できないわけではありません。神様は三歳の幼児には三歳の幼児にわかるように教えてくださるのです。ですから、私には私にわかるように教えてくださいます。今日はとくに次女の祈りを通して教えてくださったのです。そのことに気がついて本当に感謝です。きっとあなたにはあなたにわかる方法で教えて下さっっているのです。

2017年9月18日月曜日

「あなたが言っていること」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「あなたが言っていること」

マルコ 15:2 それは、あなたが言っていることです

子どものころ、親に言返すとよく次のように怒られました。「それはあなたが言っていること。それは通じない」と。 私たちは自分勝手な考えを人に押しつけようとします。子どものときは「だだをこねる」と言われました。自分の正しさを無理やり証明したいからではなかったか、自分の間違いを隠すためだったかもしれません。しかし、親は私のことを考えて客観的に見ていてくれたのだと思います。

イエス様は、死刑の判決(十字架)を受けられる前に裁判の場に立たれます。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問します。それに対して「それは、あなたが言っていることです」と言われました。ピラトが言うまでもなく、イエス様は神様であり王なのです。ピラトの言葉に対して「どうぞお好きなように」といわれたのではないでしょうか。

「読むクスリ」という本があります。最近出された本に「女性が物を買う4つの条件」というのが書いてあり、楽しく読ませていただきました。みなさんはその4つの条件がわかりますか?4つとは以下のものです。

 1、みんな持っているから。

 2、誰も持っていないから。

 3、やせてみえるから。

 4、夫が「買うな」と言ったから。 

 どうでしょうか。ここに非常に面白い現象があります。それは1と2です。相反する気持ちをもっておられるということです。「みんなが持っている」というのは極めて日本人的な思考で、安心するということでしょう。しかし、反対に「誰も持っていない」というのは、それだけ稀少価値があるということで、ちょっと自慢できるということでしょうか。人間はいつもこの矛盾の中に生きているものだと言えます。それでは信仰はどうでしょうか。これもまた同じではないかと思います。「信じる」という思いと「信じられない」というこの2つが、同じ私の中にあるのです。つまり、信仰というものが矛盾しているように思えるのです。しかし、そうかなと考えてしまいます。これは矛盾しているのではなく、実は一つのことの裏表なのです。「信じる」から「信じられない」のです。つまり、信じるために疑うことをするのが私たちなのです。

 イエス様は私たちが、「あなたは神様です」と告白したから神様になったのではありません。むしろ神様だから私たちが告白することをゆるされたのです。そこのところを勘違いすると大変なことになります。 「あなたがいっていること」というイエス様のみ言葉を思い出し、自分の言葉を顧みるひと時をもちましょう。

2017年9月16日土曜日

きままな休日・おこのみやき広島

お好み焼きと言えば
広島でしょう!
と広島で暮らした娘たちは譲りません。
そうですね~そうしておきましょう。

2017年9月14日木曜日

「いくつかの十字架」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「いくつかの十字架」
 
 ドイツ・ブラウンシュバイク州のある教会で、不思議な十字架を見つけました。ちょうど礼拝堂の正面に掲げてあり、私たちの教会のものと同じ大きさでした。なぜ不思議な十字架かといえば、主イエスを十字架から降ろしている場面の十字架なのです。十字架の下には、母マリア、マグダラのマリア、アリマタヤのヨセフ、兵士たちがいて、いままさに主イエスを降ろそうとしている十字架でした。すでに主イエスの足を抱きかかえているマリアがそこにいるのでした。
 
 その十字架をみたのは初めてで、とても新鮮な感覚を覚えました。その十字架が訴えているものは何かと黙想する時間も与えられたのです。
 
 さて、もうひとつの不思議な十字架が手元にあります。それはマカオの友達が送ってくれたものです。この十字架には主イエスと、その横でぶどう酒を差し出している女性がいます。私は勝手に解釈し「マグダラのマリアの十字架」と命名しました。なんでもこの十字架は不謹慎とされ、製造中止になったのだそうです。私はこの十字架が好きです。
 
 十字架につけられた主イエスに、最後まですがりついて奉仕するマリア。その与えられた信仰が胸を打つのです。その信仰ゆえに、復活の主イエスに一番先に出会った女性となったのです。

2017年9月13日水曜日

「夢中になって」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「夢中になって」

ルカ  19:48 民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

「何かに夢中になると免疫力があがる」という話をきいたことがあります。ある研究者がその実験をしたそうです。日頃からプロ野球でひいきのチームをもって夢中になって応援する人を、各チームから10名ずつ選び、試合を観戦して試合後に採血検査をする。これを繰り返し調査したそうです。するとチームの勝ち負けに関係なく、夢中になって応援したファンの免疫力が増しているという結果がでたそうです。つまり、夢中になることで人は免疫力がアップするというのです。

イエス様はエルサレムに入城されたあと、神殿の境内で民衆に教えておられます。この神殿では「宮清め」商人たちを境内から追い出すという厳しいイエス様をみることができます。祭司長や律法学者、民の指導者たちはイエス様を殺してしまおうと計画しています。しかしできませんでした。なぜか?それは「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたから」でした。聖書の中で「夢中」とい言葉が使われているのは、ここしかありません。私たちは「夢中になって」イエス様のみ言葉をきいているでしょうか。

ある雑誌に、ラオスでドングリを食べた話が書いてありました。山奥の村にでかけていったとき、夕食に単に茹でたドングリがでたそうです。特に美味しい訳でもなかったけれど、いつのまにかなくなっていたという話です。その作家は続けて書いていました。「もともと人間の食とは、そこにあるものを食べるということ」だと。「そこにあるものを食べる」。それを料理して美味しく食べるのは文化です。しかし、そこにないものを高いお金を出して取り寄せて食べるということは、本来の「食」の在り方だろうかというものでした。たしかに、食についての疑問はたくさんあります。美味しいと思う部分のみを食べ、それ以外は捨ててしまう。賞味期限に惑わされる。本来の食べるということから間違った方向を歩んでいるのかもしれません。そこにある物とは、神様がその人に与えた物ということです。神様は、その人にあった物を与えられる。そのままいただくことの難しさを感じます。神様の愛を素直に受けることで、私が生かされるはずなのに素直に受けられないでいる。本当に何が大切かを考えなければなりません。

民衆が「夢中」になってイエス様のみ言葉聞いている。このイエス様の言葉には力がありますから、夢中になって聞いた民衆が救われるのは当然のことです。命の免疫力をアップしたいなら、イエス様のみ言葉に「夢中」になることです。

2017年9月12日火曜日

「スタートでありゴール」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「スタートでありゴール」
 
 「古賀政男メロディー」といえば、日本人の心に響く音楽だと言われています。私の時代ではないですが、古賀メロディーを聞けばなんとなくホッとするのも事実です。父などは大正琴でよく聞いておりました。
 
 さて、古賀さんが残した四千曲のなかで、一つだけを選んでくださいといわれたら、あなたは何を選びますか。ほとんど人たちが「影を慕いて」を選ぶのだそうです。ということは、古賀作品の最初の曲です。古賀さんがまだ大学生だった頃の作品で、全く無名時代のものです。
 
 「初めがスタートでありゴール」という言葉があります。最近このことの重みを感じます。それは、毎日聖書を読んでいても、初めて読んだあの高校生の時のような感激がもどってこないのです。そのような経験はありませんか。ルターは「毎日、あたかも初めて開くかのごとくに聖書を読む」と言ってます。そのことがどれだけ難しいかを実感します。
 
 もういちど、最初に戻ってみましょう。そのときの喜びを感じてみましょう。それが失われていないならば、あなたは毎日キリストと出会う感激をもつことができるのです。

2017年9月11日月曜日

「良く計算して」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「良く計算して」

ルカ  14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

ルサレムに行くと幽霊ホテルといわれているものがあります。外国の資金で建てられた高級ホテルになる予定でした。しかし、完成はしたのですが一度もオープンせず、そのまま放置してあるのです。出資会社が倒産したわけでもありません。じつは、そのホテルはデザイン重視で総ガラス張りのホテルだったのです。中近東の砂漠地帯にエルサレムがあることを計算に入れずに建築した結果です。つまり、中で人がくつろぐような温度ではなく、砂漠以上に暑いホテルになってしまったのです。どうしてまず計算して考えなかったのでしょうか。

イエス様はエルサレムに向かう途中で、一緒についてきた群衆に弟子の条件を話されました。とても厳しい言葉がならんでいます。「もし~~でないならば、わたしの弟子ではありえない」と3度も言われました。最終的にはすべてを捨てて従うことを求められます。自分の人生においてよく考え、計算し、中途半端な決意は失敗すると、たとえをもって語られました。大切なことは、よく考えることです。

牧師会の最中にふと、「一日を大切にしているか」と考えていました。朝がきて夜がきての繰り返し。どれだけのものに感動し、心を動かされ、神様を讃美しているか。ただ単にボケ~っと日々を重ねてきたのではなかろうかと考えてみたのです。さっそく計算機を出して、いままで何日生きてきたかを計算してみました。いま54歳と半年なので、ザ~っと計算そても「19787日」となります。四十五歳の人では「一六五00日」で、七十歳では「二五五00日」です。ちなみに三歳の子では「一九0五日」ですが・・・。いったいこの日数のうち、どれだけを覚えているでしょうか。昨日のことすら思い出せない私ですから、ほとんどわからないかもしれません。一日を大切に生きようと思っても、なかなか大切にはできないものです。たぶん感動とか、感謝を忘れているのかもしれません。

イエス様は「まず腰をすえて」と言われます。客観的という意味にも取れますが、信仰にとって何が一番大切かを考えてみよと言われたのではないでしょうか。あなたの人生にとって何が大切でしょうか。