2017年12月30日土曜日

気ままな休日・熊本駅の駅弁

はじめて熊本駅で駅弁を買いました。
とろ玉にひかれました。半熟卵ですね。牛肉も甘くて美味しかったです。
ただ、冷たいのがね~~~。この弁当は温かくして食べたいです!

2017年12月29日金曜日

クリスマス礼拝が無事に終了

クリスマスおめでとうございます。
それぞれの教会でクリスマス礼拝が行われました。

2017年12月28日木曜日

「朝六時の柳井駅ホームにて」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「朝六時の柳井駅ホームにて」
 
 先週の火曜日の朝六時頃に、柳井駅にいました。というのも前日の徳山行き最終列車に乗り遅れて柳井止まりだったのです。この日は長女・華美の入学式があり、とにかく早く帰らねばならなかったのです。ところがここでも一番列車に乗り遅れてしまいました。
 
 朝六時の柳井駅ホームにひとりぼっちで立っていると、なんだかとてもむなしくなってきました。「自分はここで何をしているのだろう」という思いがわき上がってくるのです。誰もいないホームには希望のかけらもないように思えてしかたありませんでした。そんな時、宣教も同じかもしれないと思ったのです。
 
 次の列車まで三十分ありました。いままでの自分を振り返りながら待っていました。すると、十分位前からポツポツと人がこられるようになりました。そして五分前になると大勢の人たちでホームがいっぱいになったのです。しかも、徳山駅までの一駅ごとに人数は多くなり、櫛が浜駅では満員電車へと変わったのです。
 
 「宣教も同じだ」と思いました。神様は粋なことをなさいます。誰もいないホームから満員電車まで、あなたの宣教は無駄ではないよと励ましてくださったのです。私たちは小さな群れでも、「復活列車」はいつも満員なのです。キリストが一つ一つの駅に止まっては、そこにおられる方々を乗せておられるのです。ゆっくりでいいです。

2017年12月27日水曜日

「身でわかる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「身でわかる」

ルカ 6:44 木は、それぞれ結ぶ実によってわかる

 ネット朝日に、次のような記事がありました。名古屋市交通局は、市バスの男性運転士が、同市でバスを運行中に、乗客を置いたままバスを乗り捨てたと発表した。バスには乗客8人がいたが、25分後に代行バスに乗り換えるなどした。交通局によると、運転士は、地下鉄高畑駅のバス停を出発する予定だったが、発車直前に乗客から病院への行き方を尋ねられ、発車が1~2分遅れた。車内の別の客から「早く行け」などと遅れをとがめられ、運転士は憤慨、一つ目のバス停を約400メートル過ぎた所で突然停車し、バスを乗り捨てた。運転士は約1時間後に歩いて営業所に戻ったという。運転士は交通局の調べに、「注意され、怒ってしまった。バスを放置してしまい、大変無責任なことをした」と反省しているという。こんな記事でした。これを読んでみて、何かおかしいなと感じました。何がおかしいのか。それは運転士さんだけが無責任なのではないと思います。彼は親切に病院の行き方を教えていたのでしょう。その状況がわかっていながら「早く行け」といった乗客の言葉にもおかしさを感じるのです。どちらにも心の余裕が必要と思いました。

ルカ福音書でも有名な「平地の説教」の中にある、み言葉です。「木は、それぞれ結ぶ実によってわかる」といわれているように、神様から与えられた賜物によって、どんな実をつけるかが大切です。しかし、実をつけるのは私たち自身です。人はその人の実しか結ぶことができないのです。良い人に良い実が。ただ、考えておかないといけないことは、なにを持って「良い」とするかです。

道元禅師の言葉に「霧の中を行けば、覚えず衣湿る」というのがあります。霧の中を歩いていると知らない内に衣服が湿ってきて重くなるということです。濡れるともなく濡れるということでしょうか。人間の生き方も同じで、知らず知らずに、ということが多いと言われているみたいです。ところが、少し考えを変えてみました。人生は知らず知らずのうちに身に付くものがあるというのなら、美しいもの、楽しいもの、感動するものの中をたえず歩こう。知らず知らずのうちにそれらを持つことになる。生きるのが苦しいとか、仕事が大変だと思ってばかりだと背中が重くなってくる。しかし、これも神様から与えられたものとして、神様と共に歩むならば人生は神様の恵みに湿ることができる。恵みに湿るというか、恵みにしっぽりと包まれることになるのだと。

 イエス様は「木は、それぞれ結ぶ実によってわかる」と言われています。最終的にはいまそこに現れていることでその人の根っこがわかるといわれました。イエス様がいわれる「良い実」とはその人が生きてきた選択による結果です。神様の御心に従った生き方を選択してきたかどうかが実に影響を及ぼします。仕事が出来るだけでなく、何のためにこの仕事をしているか、神様の御心に従っているかどうかを考えて、今日も生きていきましょう。

2017年12月26日火曜日

「幸せを探すことが」

 クレヨン牧師のミニエッセイ

「幸せを探すことが」
 
 阪神大震災救援活動のとき、西宮教会で「大阪ムジカ」の皆さんのご協力により「こころなごむコンサート」が行われました。これは学童の子供たちと被災者の方々のためのクラッシックコンサートでした。すべての曲が感動的なものでしたが、なかでも私の目頭を熱くしたのが二曲ありました。
 
 一つはプログラムにはない、祈りとして演奏された「G線上のアリア」です。これは言葉では表現できません。本当に祈りでした。そしてもう一つは「めぐる季節」です。この曲はアニメ「魔女の宅急便」の挿入歌だったと思います。たぶん子供たちのために演奏してくださったのでしょう。なぜか私には涙でいっぱいとなる曲でした。
 
 さっそくCDを買いました。そして歌詞カードをみてもう一度感動したのです。出だしはこうです。「薄紅 花景色 せつなさを知った春 はかなく散ってゆく 風の指先ふれて」。この繊細さに驚きました。その歌詩の途中には「幸せを探す人が一番幸せだって」というところがあります。ここが一番感動しました。
 
 主イエスと共に十字架にかかった一人の強盗は、最後まで主イエスをののしっています。しかし、もう一人の強盗は「私を思い出してください」と主イエスに信仰の告白をしました。十字架上で主イエスと共にある幸せを探したのではないでしょうか。彼は人生の土壇場で神様と出会う幸せを探し求めたのです。
 
 「めぐる季節」の最後の歌詞は、「明日はどんな風 歩き出す窓辺から、もうすぐみえてくる夢を渡ってゆこう」とあります。この曲が演奏されたのは神様の配慮だったのだと信じています。


2017年12月25日月曜日

「聞くだけではなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「聞くだけではなく」

ヤコブ  1:22 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

若いカップルが喧嘩をしていました。どうもお互いの意志疎通ができずに言い合いをしているようでした。盗み聞きはいけないとおもいながら、自然と聞こえてくる声にどうしようもなく聞いてしまいました。実は男の子はとてもおしゃべりで、自分の意見だけをまくしたてていたのです。女の子も何か言いたいのだけど、黙っていました。その男の子がしゃべらせないのです。「何か言いたいことある?」「ないよね」「何か言ったら」「言わないなら僕が言う」とずっと話していたのです。相手の話を聞くことの難しさを思いました。聞き流す、聞くだけよりもっと悪い状況のように思えました。

聖書の中には「聞く」というみ言葉はたくさんでてきます。聞くこととはどんなことでしょうか。聞いたらそれによって何かが起こることを意味しているようです。ヤコブは「聞くことだけに終わるもの」になってはいけないと諭しています。聞いて理解し、そして行うことがもとめられています。その行いは「受け入れる」ということです。

北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。

  落葉焚けばおもしろ、

  櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。

  萱(かや)の葉はちょろちょろ、

  松の葉はぱちぱち。

 なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。

ヤコブは「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と教えています。たいていの人は「聞くだけ」になります。しかし、しゃべり続ける人は「聞くことさえできない」人です。聞くことは相手を受け入れることです。それがなければやっぱり「聞くことさえできない人」になってしまいます。せめて聞くだけからはじめて、本当の聞くことを学んでいきたいと願います。それは受け入ることへとつながっていくからです。

2017年12月24日日曜日

クリスマス礼拝終わりました

大江教会はブラウンチャペルで礼拝をおこないました。
イブ礼拝は阿久根教会との中継礼拝でした。

2017年12月23日土曜日

きままな休日・天草刺身の舟盛り

19983510_10155516906774419_2269254816511489788_oいや~~~刺身はいいですよね。
日本人だな~と思います。
天草の新鮮な刺身を食べて、いざクリスマスです!

2017年12月22日金曜日

クリスマスがやってくる


日曜日はクリスマス礼拝です。
24日10:30~クリスマス礼拝
24日19:00~キャンドルサービス。
ご一緒にキャロルを歌いましょう。

2017年12月21日木曜日

「捨てて信仰を拾う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「捨てて信仰を拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

九州学院の高校3年も大学進学を目指して追い込みと言ったところでしょうか。自分も大学進学のために、東京へ旅立った日のことをおもいだします。神学大学の寮につき、自分の荷物をまえにしたときの、なんとも表現できない悲しいような気持ちを思い出すのです。部屋についた荷物は、布団一組と段ボール箱一つでした。箱の中には本が三冊とカセットテープ、鉛筆削り、そしてインスタントコーヒーだったのです。あれから30年、なんと荷物が増えたことでしょうか。三冊だった本はいまや段ボール百箱。あ~あ。家族が増え、家具が増え、ステレオに車が増え、心に平安が増え、心配事が増え。

 私たちはたくさんのモノを持っています。物質的にも、精神的にも。持ってしまった以上に捨てきれないのも私たちです。しかし、原点を思い出すたびに何が大切かを思い知るのです。なぜなら、三冊の本とは「聖書」でした。捨てきれない荷物のおもさまえうしろ 山頭火

徴税人レビ(使徒マタイ)の召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。イエス様のこの一言を待っていたのです。彼も悩み苦しみの中で、イエス様との出会いを待っていました。

良寛さんというお坊さんがいます。大好きなお坊さんです。その良寛さんの逸話話に「拾うことの楽しさ」というのがあります。良寛さんは人々がお金を拾ったら大喜びするのが不思議でたまりませんでした。良寛さんにとってお金は何をおいても大切なものではなかったのでしょう、それで、良寛さんは自分もやってみることにしました。自分のお金を捨てて拾ってみます。全然楽しくない。ところが、投げ方が悪く草むらに入ってしまった。必死に探して見つかったときの喜びがわかったという話です。良寛らしい話だと思います。

本日の聖書では「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。すべては捨てたけれども「イエスに従う」という信仰を拾ったのです。信仰を拾ったというのは与えられたのです。神様から一番確かなものを与えられたことになります。私たちが必死にしがみついているものは何でしょうか。信仰はしがみつくものではありません。与えられるものです。

「抱かれていると知ってても」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「抱かれていると知ってても」
 
 九条武子さんの歌に次のようなこのがあります。
 
  抱かれてあるとは知らず 愚かにも
 
   我 反抗する 大いなる手に
 
 久しぶりに、日本ルーテル神学大学(現・ルーテル学院大学)へいってきました。全国の中高生キャンプが今年は東京で行われたからです。私にとって神大は母校ですが、いつまでも忘れがたいのは八年間を過ごした「ルター寮」です。いまでは女子寮となってしまった懐かしい部屋を見上げながら、よくあれだけ反抗したものだと感慨深くなりました。
 
 神様との格闘。負けることはわかっていても、どうしても反抗したくなる時があります。「神様は実はいない。助けてくれない。信じている人は弱いからごまかしているだけ・・・」などと、神様を否定しようと努めるのです。しかし、最後にはとらわれてしまい、降参することになります。それでいいのですが。
 
 私たちは神様から抱かれている存在です。逃げられないのです。神様に「私の全てをお願いします」と明け渡したときが、本当の救いの時なのです。安心してジタバタできる信仰ということです。

2017年12月19日火曜日

「春の音」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「春の音」
 
 春の音を聞いたと言える一週間でした。
 
 教会の裏に植えたサクランボが開花しています。三年まってやっと花を咲かせました。その花の開く音が「ポッ」と聞こえるような、かわいい花を咲かせています。また、娘たちと虹が浜へ行きました。春の風を聞きながら、波の音まで春だなと感じさせてくれました。目を閉じていると、雲雀がさえずり、鳩の羽ばたきの力強さに驚きました。「あなたももっと力強く羽ばたいたらどうです」と、神様に優しく諭されたようなさわやかな気分でした。
 
 そして、本当に春の音を聞いたのは、六日市集会の村上姉のお庭からでした。深紅の梅がいままさに満開なのです。一年に一度この紅梅を見てきましたが、今年ほど深紅に見えたのは初めてです。ライトアップされたその瞬間に、確かに春の音を聞いたのです。表現することはできませんが、老木の紅梅が新しい命の音を聞かせてくれたのです。
 
 一瞬にして春を感じることがあります。その春は確実に広がっていきます。もうすぐ鴬も鳴き方の練習を始めることでしょう。そんな優しさの溢れる世界を造られた神様を賛美せずにはおれません。

2017年12月18日月曜日

「自分の視点だけでなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分の視点だけでなく」

フィリピ 24 めいめい自分のことばかりでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

「イソップ物語」の中に次ぎのような話を見つけました。

 「農夫の畑に、木が一本ありましたが、くだものがならず、やかましいスズメやセミの休み場になっていました。農夫はくだもののならない木だから切ってしまおうと思いました。そこでおのを持ってきて一度切りつけました。セミとスズメは、自分たちの休み場を切ってしまわないで、いままでどおりそこで歌をうたわせて下さいとたのみました。ところが農夫はそれにはかまわず、二度三度と切りつけました。ところが、その木はうつろになっていて、ミツバチのむれとハチミツが見つかりました。農夫はハチミツをなめて、おのを放りだして、その木を神木におまつりしてだいじにしました。人間というものは、生まれつき正しいことを大事にして敬うよりも、利益を求めるものです」。私たちは「身勝手な存在」かもしれません。自分を考え、利益に従って変わる弱い存在かもしれません。しかし、それでも神様は導いてくださるのです。

パウロはまず2章のはじめに「へりくだる心」を持つことを薦めています。また、キリストによる励まし、交わり、あわれみの心が与えられていると告げています。そのことはキリストの十字架の出来事として確認できるというのです。キリストの十字架を思いながら、自分たちの生き方を点検するように勧めています。すべてはキリストがどうされたかを考えることです。

 ある本で次の言葉をよみました。「人間の見方ほどあてにならないものはない。多くの人間は自分を中心にしてそこからすべての物事をみるものだ」と。つまり、その視点が正しいかどうかは問題にしていないというのです。本質は違っていても、自分の視点こそが正しいものとしていると。具体的なたとえも書いてありました。かわいいぬいぐるみを持った一人の女の子がいます。彼女はそれを誰にも触らせてくれませんし、まして貸してもくれません。多くの人は「なんてわがままな女の子だろうか」と思います。しかし、その子の母が昨晩天に召されて、そのぬいぐるみはお母さんが大切にしていたものだということがわかったとき、人はその女の子を「わがまま」とは思わない。すべては、自分の視点でしかみないことに間違いがおこる。

 パウロは「他人のことにも注意を払いなさい」と言います。そして見本はイエス・キリストだと言っています。いつもイエス様だったらどうされるか考えてみようということです。自分の視点の転換がおこるとき、より本質に近づいていきます。イエス様だったら、女の子のすべてを知ってぬいぐるみと共に抱きしめてくださると思います。

2017年12月15日金曜日

2017年12月14日木曜日

「ほしかった携帯電話」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ほしかった携帯電話」
 
 もう20年前の話です。
 「新任教職オリエンテーション」に講師として参加してきました。私に与えられたテーマは「教会のおかれた地域・その働き」というものでした。多くの教会から、徳山教会は「どうも楽しいらしい」と思われているみたいです。もちろん不思議と楽しいことがいっぱいあるのですが。
 
 さて、新任の牧師の研修会で、牧師には携帯電話が必要であると確信しました。というのも、牧師はいつ何が教会の皆さんに起こったとしても連絡がつかなければならない。羊飼いは二十四時間体制なのだと知らされたのです。また、牧師家族の安心のためでもあります。留守中の教会には何が起こるかわからないからです。また震災の救援活動を通して、その大切さを理解できました。
 
 それで、コツコツためたへそくりで、さっそく「携帯電話」を買いました。いえいえ本当は持ってみたかったのです。これでいつでも連絡がつくことになりました。教会、皆さん、そして家族との連絡が常にできます。この安心感なのでしょうね。携帯電話を嬉しそうに眺めていると、華美が大きな声で叫びました。「お父さん、またおもちゃ買ってズルーイ」。
 
 どうぞいつでもお電話ください。

2017年12月13日水曜日

「もう一人いる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「もう一人いる」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

この世の中けっこう「こうでなければならない」が多いように思えます。ある時、結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言っていますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「一応『父親』となっていますが、そうでなければならないことはありません」です。しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。そのお母さんに牧師として答えようと思い「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持ちや、願いや、愛が含まれていると思いますよ。その気持ちを大切にしてあげてください。娘さんはお母さんと共に歩きたいのですよ」と答えました。

マリアの受胎告知の場面で、天使ガブリエルはもう一人の存在を告げます。聖霊によって身ごもることのお告げにマリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか」と言いました。それに対して親類のエリサベトも同じように聖霊によって身ごもっていると言うのです。同じ境遇のものがもう一人いる。これは神様がマリアにされた大きな配慮かもしれません。バプテスマのヨハネの誕生と存在は、この出来事を支える影の力だと言えます。

PTA会長をしていた時、耳の不自由な子がいました。挨拶運動で毎朝挨拶しても返事もなく、通り過ぎていくだけでした。あとで彼女の事情を知りました。転校生だったので征服も違うし、かばんも違いました。いつも一人ぼっちだなと思っていたのです。しかし、その子には一人だけ友達がいました。その子がいたので毎日学校へ来ることができたし、元気に卒業していきました。そのたったひとりの友達が、次女でした。

共に歩んでくれる人がいる。これは大きな恵みです。クリスマスのメッセージで「インマヌエル」という言葉があります。これは「神は我々と共におられる」という意味です。クリスマスの本当の意味は、神が共にいてくださるということです。

2017年12月12日火曜日

「何をしてほしいのか」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「何をしてほしいのか」
 
 たまにですが、愛美は夜中に泣き出すことがあります。大抵は喉が渇いたので牛乳をほしがります。ところが、ごくたまに何で泣いているのかわからない時があります。きっと自分でもわかっていないのだと思いますが、これは親としては困ったものです。「これをしてほしい」というものと、それが言える相手があるのは幸せなことです。
 
 阪神大震災のお手伝いをさせていただいている時、毎日全壊した家の前に立っているお年寄りを見かけました。何をするでもなく、ただ毎日同じ場所に立って呆然としておられたのです。声をかけてみましたが、「何をどうしていいのか、さっぱりわからないのです」と言われました。
 
 主イエスは癒しを願う人に、「何をしてほしいのか」と言われました。私たちは何と言うでしょうか。本当に求めてくる者に、主イエスはその心の深みにある願いをいいなさいと言われるのです。どうでもよいこと、どうでもよくないことを判断して申し上げなければなりません。
 
 全壊した家の前に立つお年寄りは「家庭の匂いを返してほしい」といわれました。人間の生命線がそこにあるように思います。

2017年12月11日月曜日

「捨てる・拾う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「捨てる・拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

「違う角度からの人生観」という本に、《信じること》と題して書いてあります。

「ぼくは小さくて、野球もフットボールもまだできない。だって八歳になっていないんだもの。それに、ママは、ぼくが野球をはじめても速く走れないって言う。足のしゅじゅつをしたからね。でもぼくはママに言ったんだ。『速く走れなくてもかまわないんだ』って。だって、ぼくが球を打つと、ぜったい野球場の外に出ちゃうんだから・・・。走る必要がないんだ。あとは歩いてホームインするんだ」。私たちは、人生の中で困難に出会うと、どうしても後ろ向きに考えてしまいます。なにかのバチが当たったとか、もうだめだとか。しかし、本当にだめなのでしょうか。そのようなことにぶち当たったときに、どうしたら前向きに考えることができるでしょうか。それは《信じる》ことです。

徴税人レビの召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。

山頭火という俳人の句に「秋風の石を拾う」というのがあります。山頭火は、財産を捨て、家をすて、故郷を捨て、家族を捨てて放浪の旅をしながら悟りの境地に近づいていく俳人でした。しかし、捨てても、捨てても煩悩はすてきれずに苦しんでいたようです。そんな中でふと「石を拾う」ということに何かを見出したのです。この石というのはただの石ころのことです。人間は捨ててばかりでは生きていけない、拾うということでバランスをとっているのではないかなと思います。大切なことは「すべてを捨てて何を拾うか」です。

徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。しかし同時に信仰を拾った(与えられた)のです。一番確かなものを与えられたことになります。ということは、イエス様を拾ったということです。今週もまた、一番大切なものは何かをかんがえながら過ごしていきたいと思います。

2017年12月8日金曜日

アメリカから鹿児島教会へ

今年鹿児島教会の礼拝堂に、アメリカの姉妹教会からプレゼントされました。

2017年12月7日木曜日

「ストライキ金魚」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ストライキ金魚」
 
 子供の頃から大好きだったので、いまでも金魚を飼っています。といっても二匹しかいないのですが。いまの金魚が我が家では四代目になると思います。生死を繰り返しているのです。
 
 あるときは餌のやりすぎで水が腐ってしまいました。留守中にポンプが故障してしまったり、水温の調節がうまくいかなかったり。大抵は死んでしまったのですが、それでも金魚が大好きで飼いたくなるのです。
 
 いま我が家にいる金魚は、娘たちが選んだものです。だんだん大きくなってきました。餌の量も増える一方です。この金魚の名前は「ストライキ」と言います。なぜなら餌をあげないとすぐストライキを始めるからです。その方法はひっくり返って抗議をするのです。初めは苦しいのかなと思いましたが、「はやくくれ~。おなかがすいた~」とだだをこねているみたいなのです。
 
 人間はどうでしょうか。神様に対して同じことをしているのかもしれません。ストライキするほどの信仰があればよいのですが。

2017年12月6日水曜日

「非難されないように」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「非難されないように」

2コリ 8:20 わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。

出久根達郎さんの本で、ぞっとするような話しを読みました。

「いつのことだろう。ロシアでは政府を批判した本の著者には、その本を食べさせる刑罰を科した。毎日、医者立ち会いのもと一定時間、本を寸断してくわせた。発行部数を全部食べ終わった時、刑が終了したとして赦免した。ベストセラー作家は生涯くいつくせないわけである」というような話しです。もしも、自分の本が刑にふれて、このような刑罰をうけたとしたら、考えただけでゾッとしました。批判、非難はできるだけ避けたいと思います。

8章16節以下には、募金を呼び掛け、集金し、保管するという務めをしていたテトスのことが称賛されています。またテトスと同じように諸教会で選ばれた兄弟たちも同じです。パウロは、これらの人々は信用できる人柄であると述べています。しかし、パウロ自身に対しては彼の金銭的活動に身に覚えのない疑惑がもたれていたようです。そこで、テトスをはじめコリントでも良く知られた人物を立てて身の潔白をしめしたのでしょう。

ボランティア活動で募金をする場合、大切なことがいくつかあります。それは「何のために必要か」「いくら集まったか」「それをどのように使ったか」を誰にでもわかるように公表することです。この中の一つでも欠けると疑惑をもたれます。集まったお金を、自分たちのためにつかっているといった非難中傷を良く聞きます。せっかく素晴らしい活動なのにと思いますが、3つのうちのどれかが欠けているのです。簡単なことですが、公表することは信頼を生むことです。また第三者にみてもらうことはもっと確か信頼を生みます。監査というのはそういうものです。募金活動は信頼されることが一番大切です。

パウロは「だれからも非難されないようにしています」と言っています。パウロは、自給自足の立場をしっかり守ってきましたが、金銭的な問題で誤解されたようです。そこで募金活動においては非難されないことを心がけているのです。すべては公にされていること。それは神様が公にして下さっていることに感謝するということばで分かります。

2017年12月5日火曜日

「臨時学童保育を震災で」



クレヨン牧師のミニエッセイ

「臨時学童保育を震災で」
 
 阪神大震災の教会における救援活動に派遣されて、約一ヶ月西宮教会へ行ってまいりました。みなさんもテレビなどでご承知のとおり、教会の周辺はほとんど家が全壊状態でした。いまも水道、ガスは止まったままです。一日も早い復興を祈るばかりです。
 
 西宮教会での救援活動はだいたい三つのことでした。一、臨時学童保育。二、大谷避難所訪問。三、地域の方々への奉仕(水汲み、救援物資配布、夜回りなど)。
 
 これらの活動のうち、臨時学童保育は大変意義深い活動でした。被災後すぐに現地へ入られた方々の選択が間違ってなかったと思います。この震災で子どもたちが受けた心の傷を癒すこと。また、保護者の方々が安心して後かたづけできることの手助けができたからです。
 
 ある保護者の方からは「学童にいくようになって子供が私から離れて遊ぶようになりました」「子供が夜泣かずに寝れるようになりました」「子どもたちが学童に行っている間、安心して家の片づけができます」といった感謝の言葉をいただいています。
 
 これからも臨時学童保育は続けられます。そしていまでは幼稚園児の学童保育も始めました。定員二十名をはるかに超え、三十名になりました。市原牧師(西宮教会)は「神様がこの礼拝堂を残して下さったのは、何かに使えということだね」と言われます。何ができるか模索し、そしていま学童保育を与えられています。

2017年12月4日月曜日

「捨てて信仰を拾う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「捨てて信仰を拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

九州学院の高校3年も大学進学を目指して追い込みと言ったところでしょうか。自分も大学進学のために、東京へ旅立った日のことをおもいだします。神学大学の寮につき、自分の荷物をまえにしたときの、なんとも表現できない悲しいような気持ちを思い出すのです。部屋についた荷物は、布団一組と段ボール箱一つでした。箱の中には本が三冊とカセットテープ、鉛筆削り、そしてインスタントコーヒーだったのです。あれから30年、なんと荷物が増えたことでしょうか。三冊だった本はいまや段ボール百箱。あ~あ。家族が増え、家具が増え、ステレオに車が増え、心に平安が増え、心配事が増え。

 私たちはたくさんのモノを持っています。物質的にも、精神的にも。持ってしまった以上に捨てきれないのも私たちです。しかし、原点を思い出すたびに何が大切かを思い知るのです。なぜなら、三冊の本とは「聖書」でした。捨てきれない荷物のおもさまえうしろ 山頭火

徴税人レビ(使徒マタイ)の召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。イエス様のこの一言を待っていたのです。彼も悩み苦しみの中で、イエス様との出会いを待っていました。

良寛さんというお坊さんがいます。大好きなお坊さんです。その良寛さんの逸話話に「拾うことの楽しさ」というのがあります。良寛さんは人々がお金を拾ったら大喜びするのが不思議でたまりませんでした。良寛さんにとってお金は何をおいても大切なものではなかったのでしょう、それで、良寛さんは自分もやってみることにしました。自分のお金を捨てて拾ってみます。全然楽しくない。ところが、投げ方が悪く草むらに入ってしまった。必死に探して見つかったときの喜びがわかったという話です。良寛らしい話だと思います。

本日の聖書では「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。すべては捨てたけれども「イエスに従う」という信仰を拾ったのです。信仰を拾ったというのは与えられたのです。神様から一番確かなものを与えられたことになります。私たちが必死にしがみついているものは何でしょうか。信仰はしがみつくものではありません。与えられるものです。

「受けるだけでなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「受けるだけでなく」

2コリ 8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

広島のストリートにハギーというミュージシャンがいました。夢を追いかけていたに違いありませんが、33歳の若さで天に召されました。夢だけで生きていたら終わりということも知っている彼でした。夢を追いかけるためには、昼間は重労働し汗まみれに働いて、よるデパートの前で唄っていたのです。彼の歌で「自由詩人」というものがあります。繰り返しでてくる言葉は「奪うことは止めにして、与えて生きていこう」でした。イエスが言われた「受けるより与えるほうが幸いである」という言葉と重なりました。彼の中にもイエスが御言葉をまかれていたのですね。彼は長崎の五島列島出身でした。

この手紙の8章9章は、エルサレムの貧しい聖なる者たちへの募金を訴える趣意書のような内容です。パウロは「異邦人の使徒」であったが、エルサレムの聖なる者たちへの募金活動を、ガラテヤ、マケドニア、アカイアの各地方で行っていました。コリントの人々はパウロとの関係で、この募金を停止していたようです。そこで、もう一度再開するようにと呼びかけています。その中で、コリントの人々が豊かに受けている恵みをあげ、それゆえに奉仕することを促しています。

イスラエルに「死海」という湖があります。地球上で最も低い所にある湖で、海抜マイナス418メートルにあります。海水の塩分が3%に対して、死海は30%あります。当然ながら、生物の生息には不向きな環境であるため、湧水の発生する1ヶ所を除き、魚類の生息は確認されていない。死海という名称の由来もここにあります。この死海についてイスラエルの旅行ガイドは次のように説明しています。「死海はヨルダン・ガリラヤの何本かの川から命の水を受けているが、自分から外にだすことはない。受けるだけで与えることがなければすべては死んでしまう」と。神様からのたくさんの恵みを受けるだけで隣人に与えることがないならば、その人の信仰は死んでしまうということです。

パウロは「すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」と言います。神様から受けたものを与えることによって、自分も豊かな者になるということです。イエス様の言葉として使徒言行録には「受けるよりも与える方が幸いである」と記されています。

2017年12月2日土曜日

きままな休日・阿蘇の恵み

阿蘇も復興してきました。
阿蘇と言えば、やっぱりミルクから。
そして新鮮な野菜。
さらに、雄大な自然もご馳走ですね。
感謝!

2017年12月1日金曜日

鶴がやってきた

今年も出水に鶴がやってきました。
さっそく会いに行ってきました。

2017年11月30日木曜日

「新しい試み」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「新しい試み」
 
 教会は様々な新しい試みができる教会です。隣の教会との連立教会としてだけでなく、牧師を神様の働きために送り出す教会でもあります。そのことは特別伝道にいった先々の教会でいつも話題になるのです。「留守礼拝はどうされているのですか」と。
 
 これまでいろんな留守礼拝を守ってきました。ビデオ礼拝、テープ礼拝、信徒証言礼拝、祈祷礼拝。そしていま行っているのが「朗読説教礼拝」です。これまでいろいろな試みをしてきましたが、この「朗読説教礼拝」がいまのところ一番よい方法だと思われます。
 
 説教とは神様の言葉です。それは牧師を通して、そして朗読奉仕をしてくださる方々を通して語られる福音です。そう考えれば、それがビデオでも、テープでも同じです。しかし、そこに人の存在があるかないかは大きな違いです。朗読される方を神様は用いて祝福を与えられるのです。
 
 これから牧師数が減少していきます。そのとき教会の試みが全体教会の益となればいいと思います。ご意見をください。

2017年11月29日水曜日

「種から育つ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「種から育つ」

1ペトロ 1:23  あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

ある牧師さんから秋だというのでプレゼントされたものがあります。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは東京の教会のベランダでとれたものだそうです。それらの木を大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらず。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。

ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。

ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。

ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。