2016年12月14日水曜日

食尽きたり

クレヨン牧師のミニエッセイ
「食尽きたり」
 
 ある禅宗のお坊さんの手記を読んでいて、心にガツンとくるものがありました。
 
 お布施稼ぎが本当の生き方ではないと悟ったお坊さんがおりました。寺を飛び出したものの、物乞いをするわけにもいかず、さして普通の商売をするほどの俗物でもないお坊さんだったのです。そこでこのお坊さんは考えました。誰かにわらじの作り方を聞いて、毎日わらじを作っては人のよく通るところに置きました。そして「このわらじお代は心持ち次第」と書いて、竹筒をそこに置いたのです。こうして夕方になると竹筒のお金をとり生活していたのでした。
 
 ところがあるとき、悪たれ小僧が竹筒の中のお金をとり、そのあとに馬糞をいっぱいにつめておいたのです。そうとはしらずこのお坊さんはいつものように夕方お金を取りに行きました。しかし、開けてみるとお金ではなく馬糞がいっぱいだったのです。さてそのお坊さんはどうしたのでしょうか。いたずらとは考えず、「我が食尽きたり」と観念し、何も食べないで座禅したまま死んでしまったそうです。
 
 牧師として、信仰者としてガツンとやられました。信仰は食物を得る方法ではなく、自分の本質が生きる生き方だと思います。もし、食物が神様から与えられなかったら、食わずに死ぬという覚悟が大切なのです。神様の道のために生命を全うしなければなりませんが、神様の道のために食えなければ餓死するまでのことなのです。