2016年10月3日月曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『たった水一杯でも』
 
 「水不足」といわれ慌てて節水を心掛けています。そのような自分を思うとき、いつも普段の心掛けがいかに大切であるかを考えさせらます。
 
  最近「ちょっといい話」を耳にしました。東京教会のT姉はお風呂の水をとっておかれ、その水で洗濯される。ここまでは誰でもされていることですが、まだまだ水は残ります。その水でトイレをも流されるとのこと。ここまで使用されているとは驚きなのですが、それをずっと水不足のまえから何十年もつづけておられる。その話をお聞きしてT姉の信仰を見る思いがしました。
 
  神様が生きるために与えて下さったものを大切に使わせていただく。そのお心が見える思いです。聖書には「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」(マルコ9:41)という御言葉があります。水のない所の話です。このことができるのは「ひと」の渇きをしっている人なのです。そしてまた、その渇きに対して神様の恵みを知る人なのです。「必ず報いを受ける」と主は言われる。
 
  T姉もその一人ですね。