2016年10月19日水曜日


阿久根ルター君の朝のみ言葉

マタイ8:27 いったいこの方はどういう方なのだろう

 東京勤務になった頃、土曜日に外出してみました。渋谷はすごいところで、20分もいたら息苦しくなってしまい、そそくさと帰ってきました。渋谷で、ある読者モデルの一言が100億円の効果が生むということを聞きました。この人はいったどんな人だろうと思い調べてみました。彼女は、家庭では主婦であり、母親であり、ティーズのカリスマであり。なにがこの人の中にあるのか。 彼女のことを特集した雑誌を読んで少しわかりました。彼女があるファッション雑誌の読者モデルであること。自分で情報を収集し、お店に通い、自分で工夫をして発言していくスタイル。つまり、彼女を支持する人に近いということかもしれません。

湖で風と波を静めたイエス様のことをみて、弟子たちは「この方はどういう方?」という怖れにも似た感想をのべています。「いったいこの人は?」と興味を持たせる人がいます。それをカリスマと呼ぶのかもしれません。 私たちの信仰は「この人は何者か」といところから始まります。それがきっかけとなって、導かれていくものです。

自分とは一体何者だろう。これはいつの時代でも大きなテーマです。自分が何者かを知ることは、神様を知ることです。神様の姿に似せて人は造られたのです。ネットでは自分捜しみたいなものが多くあります。我が家の娘たちがパソコンの前で大笑いをしていました。「脳内メーカー」というサイトで楽しんでいました。自分の名前を漢字で入力すると、その人の頭の中の様子がわかるそうです。長女は脳内がすべて「休」でした。そんなにゆったりとした人生もいいですよね。興味をもったので、自分の名前も判断してもらいました。すると「愛」が半分、残り半分は「欲」でした。私の脳内は「愛」と「欲」でできているそうです。結果をみて「なあんだ」と思いつつ、普通なのだなと思いました。人間ってそんなに単純ではありません。しかし、自分の中身が「愛」と「欲」が半々ということは、人生が楽しいということです。いちおう牧師なので「愛」が半分あって安心しました。

 「この人は?」と思うとき、その人の中にある何かに触れるのでしょう。私たちはイエス様の「何かに」触れているから、ひきつけられるのです。しかし、その「何か」には生きるために必要なものがあるのでしょう。私たちの働きも神様の業です。ここにある「何か」は、聖なる勤めでしょう。