2014年7月31日木曜日

「イエスと目を合わせる」
          マタイ福音書4:18~25 小山 茂

《主イエスが呼ばれる》
 主イエスはいよいよ公生涯といわれる、自ら宣教へと乗り出される時がきました。その前に、「4人の漁師を弟子にする」という弟子の召命物語があります。召命とは召す命と書きますが、主イエスが宣教を共に担う弟子を招かれます。ガリラヤ湖半を歩いておられると、ペトロとアンデレの兄弟二人をご覧になります。彼らはこの湖を仕事場とする漁師で、岸から投網を打っています。主イエスは彼らの生活の中に入って来られ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけられます。すると、二人は直ぐに網を捨てて従います。さらに、主イエスは先へ歩かれて、網を繕っている二人をご覧になって、呼びかけられます。どのように彼らに言われたのか、聖書に書かれていません。おそらく同じように、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」といわれたのでしょう。ヤコブとヨハネの兄弟二人も、直ぐに舟と父を残して、主イエスに従います
二組の兄弟4人が何のためらいもなく、すべてを捨てて主イエスに従う、そんなことがあるのでしょうか? 漁師の仕事を捨てることは収入を失うことであり、父を捨てることは家族とのつながりを切ることです。彼ら4人がこのような決断ができたのは、どうしてなのでしょうか? 最初の二人ペトロとアンデレは、直ぐに網を捨てて従いました。次の二人ヤコブとヨハネも、直ぐに舟と父親とを残して従いました。よくよく考えて決断したなら未だ分かるのですが、4人は即決して主イエスについて行きます。残念ながら、聖書はその理由を語りません。この「直ぐに従った」が、私にはどうしても合点がいかないのです。 
《直ぐに従う》
 主イエスの言葉「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」この言葉を第三者として他人事のように聴く場合、当事者として自分に呼びかけられたと聴く場合、お言葉の受け取り方が全く違ってきます。もし自分に向けて「あなたを私の弟子とするからついて来なさい」、と主イエスから直接呼びかけられたなら、どうするでしょうか? 最初の弟子たちにかけられた声でしょう、わたしには関係ありませんというのか。それとも自分に呼びかけられた声と聴くのか。それによって、御言葉は全く違って聴こえてきます。
 
自らを振り返ってみますと、10年前にある牧師が私に言われた言葉を思い起こします。「小山さん、牧師になりませんか?」初めて聴いたその言葉に、驚きを感じました。その時、何と言っていいか分からず、何も返事ができませんでした。内心ではとんでもない、私が牧師になれるはずはない、いやなれないと密かに呟いていました。ですから、4人の漁師がすぐに従ったことは、私には信じられない出来事に思えました。それから半年後に神学校の江藤校長とお会いして、翌年春神学校に入学させてもらい、今鹿児島で牧師として働きの場を与えられています。そんな私ですから、彼ら4人の直ぐに従える(いさぎよ)さに羨ましささえ感じています。
 
《人間をとる網イエス》
 主イエスのお言葉「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」それは主イエスからの呼びかけであり、新たな生き方を約束されるものです。呼びかけられた4人が、まるで抵抗できないほどの権威から、従順に応答せざるを得ない、そんな気持ちになっていたのかもしれません。4人の漁師たちは、イエスの召しに対して、何も言葉を返していません。自分の生き方を変えられるのに、主イエスのお言葉に魅入られたように、主イエスから見つめられ目を合わせ、彼らは直ぐにこのお方に従いました。神と等しいお方だから、そのお言葉に力があったのでしょう。 
今年の年間聖句ヨハネ1516で、主イエスは召命を別の言葉で語られます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」主イエスは漁師4人を、弟子に選ばれました。彼らの宣教の働きが実を結ぶため、必要なものは何でも与えると約束されています。彼らが使っていた網は、それまでの価値観であり、生き方であったかもしれません。彼らが捨てた網にとって代わる新しい網を、主イエスが用意されます。それは、主イエス御自身が人間をとる「網」となってくださるものです。彼ら4人がその網を用いて、人間をとる漁師にされます。だから、主イエスは彼らを、責任を持って任命されたのです。4人の弟子は安心して、宣教の働きに召され、できることを精一杯すればよいのです。もしできなければ、あなたが私を選ばれたのですから、あなたの責任ですといい訳ができます。そのような心意気をもてる、それが主に委ねることではないでしょうか。
 
《信じて従う》
 従うと訳された元のギリシア語は、「ついて行く、仲間になる」という意味もあります。主イエスについて行く、主イエスの仲間にされる、それが主に従うことなのです。その招きに従うなら、自分はどうなるのだろうか。そんな計算や目論見は考える必要はありません。主イエスが私たちを、丸ごと引き受けてくださるからです。弟子とされた4人はきっと大船に乗って、新たな生き方に乗り出していったのです。 
今朝の福音の後半では、主イエスが『異邦人のガリラヤ』を巡って、御国の福音を宣べ伝え、人々の病気や患いを癒されました。主イエスの活動が本格的に始動しました。周辺から大勢の人々が連れて来られ、主イエスに従いました。この従いましたという言葉も、弟子たちが従ったものと同じ言葉です。彼らは主イエスのお言葉と救援の業によって、このお方にふさわしく生きるよう招かれた者たちでした。 
 今日は阿久根教会の総会です。私たちも主イエスから、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられています。主イエスの眼差しを受けて、私たちもこのお方に目を合わせ、主イエスの招きを受け取りましょう。そして、人間をとる漁師にされていきたい。そのための備えは、主イエス御自身である「網」が与えられています。私たちにできることを精一杯させてもらいたい、そして、主の御後を歩んでまいりましょう。ハレルヤ!