2018年1月17日水曜日

「座ってみて」

 阿久根ルター君の朝のみ言葉

「座ってみて」


ルカ 1428 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

海外の教会オフィスに招かれて何回かいったことがあります。おもに仕事の話が多く、オフィスに着いたらすぐに話を始めようとします。しかし、いつも「まずお茶でもどうぞ」と飲み物をすすめられます。いや、まず仕事の話をして、それからお茶にしませんかと言いたくなります。どうも私たちは「まずお茶でもどうぞ」という言葉がでてきません。形式的にはお茶は出しますが、その時にはすでに仕事の話がはじまっています。「まずお茶でも」ということは。まず落ち着きましょうということなのでしょう。

本日の聖書をみてみましょう。テーマは、「捨てる」ということと「腰を据える」ということです。しかし、どちらも同じことを言っています。後半部分のたとえは、「腰を据える」ことが中心であるといえます。しかしこれは座るという意味です。ここのところを誤解するとこのたとえがわからなくなります。つまり、「考える」ではなく「座る」こと自体が求められているのです。私たちはイエス様の十字架によってしか救われない。しかしなお、この世の事に執着し、ああでもない、こうでもないと考えてしまう。しかし、イエス様のみとしたときにすべては与えられるということです。

幼稚園生活は大変だなとおもいます。先生たちにとっては、とてもやりがいのある神様の仕事だと感じておられることでしょう。こどもたちのケンカの仲裁、生活の指導。いっしょに楽しんで、ある時はいっしょに悲しんで、またある時はいっしょに泥団子をつくる。先生たちの働きに、ただただ感謝してみています。私が幼稚園のチャプレンだったとき一番楽しんだことは、いっしょにお弁当をたべることです。これもまたどこへ座るかでいつも大騒ぎになります。お祈りの歌をうたって、お祈りして食べる。毎日のお弁当をいただくことによって、子供たちは愛をいただいているのです。座ったときにその愛は伝わっています。子供たちはいつも真剣に食べているのですから。青山俊董尼はある講演で次のようにいわれました。「ただ着せればよい、ただ食べさせればよいというものではありません。愛を着せ、愛を食べさせる。祈りを着せ、祈りを食べさせてやってください」と。あたりまえのことです。

 答えがでないことで悩むより、神様によって与えられている答えを受け入れたいと思います。その答えは、「神様の御心のままに」です。どんなに悩んでも、神様の御心のままにしかならないのです。つまり、大切なことは神様の前に座ることです。神様にすべてまかせてしまうことです。座ってみてはじめてわかる愛があります。

2018年1月16日火曜日

「本当の子育て」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「本当の子育て」
 
 親というものは、自分の子供に対しては冷静になれないものだ、とつくづく感じます。冷静に接しているように思えても、親としての愛が積もり積もってエスカレートしていくと、怒鳴ったり叩いたりです。
 
 長女が一年生のとき、足し算の勉強をしています。問題はいたって簡単なものです。「5は□と2です」。さて□にはどんな数字をいれるかというものです。親にとっては簡単なのは当たり前です。しかも、それが簡単にできるように勉強するのが一年生です。ところがそれを忘れてしまうのが親なのです。
 
 「なんでわからないの」「だいたい基本がわかってない」「こんなのもわからないなら学校やめなさい」と怒りだす。しまいには「クラスであなただけがわからないの。となりの子はできるんでしょう」と、つまらないことを言ってしまうのです。涙を流しながらやっている娘をみていると、そんなに問題となることではなく、できないのがあたりまえなんだと思います。
 
 神様は私たちを子としてくださいます。だとすれば、私たちにとって親です。親なる神様は私にどのように接しておられるのでしょうか。怒鳴ったり叩いたりはなさいません。ましてや人と比べたりはなさいません。よき子育てもまた神様に聞くのが本当ですね。これまた祈りです。

2018年1月15日月曜日

「聞くという奉仕」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「聞くという奉仕」

ルカ 1042 必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

「相田みつおカレンダー」には次のような言葉があります。「親切という名のおせっかい そっとしておく おもいやり」。私たちは親切という名のもとに、おせっかいをしていることがたくさんあります。そして、そのおせっかいに人を巻き込んでしまうこともあるのです。

イエス様の過ごされた時代は、女性が男性を迎える習慣はありませんでした。つまり普通ではなかったことです。しかし、ここでイエス様は、男と女の差別や区別などなさいませんでした。同じ人間として接しておられます。ということは、当然なこととしてマルタとマリアをも差別なさるはずはありません。同じ目でみておられます。決してどちらか一方に思いを寄せてはおられないのです。人間の目からみれば、マルタはどのようにイエス様をもてなすかと働き、マリアはイエス様の足元に座っているのです。マルタから不平不満がでてきてもしかたありません。マルタの主張は、「マリアは私だけを後に残して、自分だけ主の言葉を聞いている。マリアも私を手伝って主のもてなしの用意をすべきだ」ということです。自分だけが働くことの不当を訴えているのです。しかし、イエス様を迎え入れたのはマリアではなくマルタなのです。

次女が一歳の時でした。家では「おせっかい娘」といわれるくらいに、人に何かをするのが好きでした。ある日のこと、朝六時にひょっこり一人で起きて、なにやらトコトコと歩いて寝室を出ていきました。黙って様子を伺っていると、台所の方でコソコソ音がしています。静かにしている時には、なにか悪い(親はそう思うのですが)ことをしているものです。暫く好きなようにさせていますと、またトコトコと歩いてもどってくる音が聞こえました。そして寝室に現われた姿を見て大笑いです。両手と口にアンパンをもっていたのでした。それからが大変です。みんなを起こして「食べろ」とばかりに口にもってくるのです。おなかが減っているのなら、自分一人で食べればいいのですが、みんなも同じ様におなかが減っていると思ったのでしょう。「おせっかい」もたまにはいいですが、度々では疲れてきます。

イエス様の前に立つ時の、思い悩みにならない奉仕。心を用いる奉仕はただ一つだけです。「主の足元に座って聞く」奉仕です。ここにマリアの奉仕があるのです。それは、マルタがどんなことをしてもマリアから取り去られない奉仕であり、イエス様の喜ばれる奉仕でもあります。イエス様は「必要なことはただ一つ」といわれました。それは、イエス様にとっても、マルタにとっても、マリアにとっても一つなのです。つまり御言葉を聞くことです。

2018年1月13日土曜日

気ままな休日・宇土の甘酒饅頭

これは私が一番好きな饅頭です。
宇土教会の前にお店があります。
このまんじゅうを食べるとほっこりします。
餡が素晴らしいです。

2018年1月11日木曜日

「聖書の早合点読み」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「聖書の早合点読み」
 
 インドの笑い話に次のようなものがあります。
 
 旅人がサトウキビを積んだ牛車のおじさんに道を尋ねました。
 
 「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」
 
 「そうだな、三・四十分というところだな」
 
 「そうですか。ところで、すみませんが、わたしもこの牛車に乗せてもら えませんか」
 
 「いいとも。乗りなされ」
 
 それから四十分ほどして、旅人は尋ねました。
 
 「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」
 
 「そうだな、一時間くらいかな」
 
 旅人は怒りました。さっきは、三・四十分といったではないかと。すると 牛車のおじさんは言いました。
 
 「旅の人よ。この牛車は反対の方に進んでいるのですぞ」
 

 
 進んでいる方向を確かめなかった旅人が悪いのです。しかし、このような間違いを聖書を読むときにしてませんか?早合点読みです。黙示録の早合点読みが、終末思想をあおり立てています。
 
 終末は必ずやってきますが、そのときは主イエスが来て下さる救いの時です。喜びの日であって、悲しみの日ではありません。今、主イエスとともに生きることがどれだけ大切なことでしょうか。