2017年8月19日土曜日

気ままな休日・鹿児島はとんかつでしょ!

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ま~~~~~お盆の帰省客で鹿児島はいっぱい。
まさかこんなに暑いので観光ではないでしょうが人がいっぱいです。
で、いつもなら少し並べば食べられる豚カツも時間がかかるんです。
それでも食べなきゃきがすまないんですね~
やっぱり豚カツは大好きです。元気も出ますし。
栄養もいいでしょう!
また来週もたべたいな~~~

2017年8月18日金曜日

鹿児島教会に中高生が集った!

九州教区中高生キャンプが
鹿児島教会で行われました!
ルターとザビエルがてーまでした!

2017年8月17日木曜日

「うな重が牧師に必要?」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「うな重が牧師に必要?」
 
 西教区牧師退修会が津和野で行われました。現代のキリスト教にとって津和野(キリシタン殉教の地)はとても意味深いところです。宣教二世紀に入ったルーテル教会にとって、西教区の牧師たちが津和野から宣教二世紀を踏み出すことに神様の導きを感じています。
 
 さて、その牧師会の最終日は、「ドライブイン津和野」で昼食をとることになりました。それぞれに自由にメニューを注文してよいことになりました。誰が何を注文するのか興味深くながめていました。結果は中華丼・八宝菜定食・焼き肉定食・ハンバーグ定食・ざるそばが各一個づつ。圧倒的人気はうな重で十三個でした。
 
 牧師はやっぱり体力勝負なのでしょうか。自然と体が求めているようです。神様はその人にいま必要なものをご存知です。そしてそれを求めるように導いておられるのでしょう。
 
 あなたがいま無意識に求めているものは何でしょうか。祈りですか。御言葉ですか。愛ですか。お金ですか。食べ物ですか。しかし、求めても与えられないのならば、本当に求めなければならないものを求めていないからです。必要なものは信仰によって与えられるのです。

2017年8月16日水曜日

「心強い存在がある」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「心強い存在がある」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。普段、私たちは神様に守られていきていると、その存在に気がつき感謝するということを忘れてしまいます。今日も元気に目を覚ますことができた、それだけでも神様が大きな恵を与えてくださっているのですが、神様の存在を感じることができません。だから、人は痛み苦しみにであったときに、神様の知るようになるのでしょう。苦しい時の神頼みではなく、私たちには共にいてくださる神様がおられることを思い出すのです。

 ルカによる福音書は、クリスマスの出来事の中心に2人の女性を置いています。一人はマリア、もう一人はエリザベトです。このエリザベトはマリアの親類でエンカレムに住んでいました。年をとっており、不妊の女といわれていました。夫であるザカリアのもとに天使ガブリエルがきて、エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもることを告げます。クリスマスの出来事の中に、神様の奇跡で子どもを身ごもった女性が2人いたのです。

 保育園のチャプレンをしていた時のことです。「氷鬼」という遊びがあります。鬼ごっこのようなものですが、鬼にタッチされたら固まって(氷になって)動いてはいけない。仲間が助けにきてタッチされるとまた動けるようになるという遊びです。この遊びをしている時、一人の男の子が泣きだしました。別になにがあるわけでもないので、「なぜ泣いているの」と聞きました。すると「氷になったまま、誰もタッチに来てくれない」と言うのです。たった一人でじっと立っていることが寂しかったのでしょう。自分のことを誰も気づいてくれないということが辛かったのです。

 イエス様を身ごもったマリアも、自分一人の問題として受けとめようとしました。聖霊によって身ごもったなどと誰も信じてくれないからです。しかし神様はマリアを一人にはしておかれませんでした。親類のエリザベトも洗礼者ヨハネ身ごもっているというのです。年とった不妊の女と言われていたエリザベトも神様の奇跡によって身ごもったのです。一人ではないことがマリアにとってどれだけ心強かったか。ここにも、インマヌエル(神我らと共にいます)が語られています。

2017年8月15日火曜日

「マカオからの葉書」

クレヨン牧師のミニエッセイ
 
「マカオからの葉書」
 
 毎週一回、必ず葉書が送られてきます。しかも国内からではなくマカオからのものです。マカオの友人が祈りや黙想の中で気がついたことを書いて送ってくれるのです。先週も木曜日に送られてきました。しかし、今回の葉書は読みつつ考え込んでしまいました。そこには次のように書いてありました。
 
 「変えようと思わないこと。変えようと思う欲望は愛の敵。自分を変えようと思わないこと。ありのままの彼らを愛すること。世界を変えようと思わないこと。それは神様の手の中にあるから。そして神様はそれを知っている。このことがわかれば不思議と変わってくるものだ。荷物に邪魔されないように人生の流れに身をゆだねること」
 
 まるで禅問答でしたが、神様がなさることを変える力など人間にはないということでしょう。神様だけでなく、人を変える力も持ち合わせてないのかもしれません。イエス様の時代でさえ、たくさんの人たちがイエス様のもとを去っていったのです。
 
 宣教とは神様や人を変えることではありません。今は福音の種まきでしかないのかもしれません。そのためになんでもやってみることです。創意工夫して、たとえそれが自分でむなしくなってきても、続けることしかないのです。種は神様の力で芽を出すのですから。

2017年8月14日月曜日

「わかっているから」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「わかっているから」

 ルカ 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。

「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。ありのままということが最近よく聞かれます。しかしこのありのままほど難しいものはありません。

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神様から遣わされます。そこに住むマリアにイエス様の誕生の予告をするためでした。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と挨拶し、イエス様を身ごもる予告をしました。マリアはこの出来事に恐れ、戸惑い、一度は拒否します。結婚前の女性が妊娠することでおこる試練、迫害、困難を乗り越えねばならなかったからです。最後には神様の言葉を信じ、その出来事を受け入れる決心をしました。

 テレビで小耳にはさんだ話です。ある女性の起業が成功し、これまでの人生についてインタビューしていました。話のなかで彼女は人生を振り返り、その試練と悩みが次々に起こったことを紹介していました。最終的には多額の借金をかかえ、夫と別れ、子ども3人を育てるために昼夜働かねばならない過酷な試練にあうのです。しかし彼女は「いまはこのように事業が成功した。すると、あの時の試練や苦しさはいまの成功のために必要なステップだった。必ず成功すると信じれば、いまの苦しみはそのためのステップなのです。そう考えている」と話していました。未来に起こることを信じることで、いまの苦しみを乗り越えることができるのだと思います。

 イエス様の母マリアは、天使のお告げに「何のことかと考え込んだ」とあります。これから起こる出来事の試練、いま自分おかれている状況への不安。たくさんの思い悩みがあったことでしょう。しかし母マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」とそれを信じ受け入れたのです。神様のみ子が誕生するという未来に起こる奇跡を信じたことで、この試練を乗り越えていきました。神様が必ず導いてくださる。この信仰が私たちに生きる勇気を与えてくれるのです。