2018年5月27日日曜日

礼拝に来ませんか

本日の礼拝説教者は
松岡俊一郎牧師(大岡山教会牧師・元阿久根教会)です。
懐かしい先生と共に零敗を守ります。

2018年5月26日土曜日

気ままな休日・肥後の赤牛

たまには「肉」を
食べるなら美味しい肉を!
きっとこれは肥後の赤牛だと思います。
おいしかったな~

2018年5月25日金曜日

もう夏でしょうか

鹿児島へ向かう高速道路のPA
すっかり緑も深くなってきました。
暑くなりましたね~もう夏でしょうね

2018年5月24日木曜日

「困難の中で」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「困難の中で」
 
 「違う角度からの人生観」という本に、《信じること》と題して書いてあります。
 
 「ぼくは小さくて、野球もフットボールもまだできない。だって八歳になっていないんだもの。それに、ママは、ぼくが野球をはじめても速く走れないって言う。足のしゅじゅつをしたからね。でもぼくはママに言ったんだ。『速く走れなくてもかまわないんだ』って。だって、ぼくが球を打つと、ぜったい野球場の外に出ちゃうんだから・・・。走る必要がないんだ。あとは歩いてホームインするんだ」。
 
 私たちは、人生の中で困難に出会うと、どうしても後ろ向きに考えてしまいます。なにかのバチが当たったとか、もうだめだとか。しかし、本当にだめなのでしょうか。そのようなことにぶち当たったときに、どうしたら前向きに考えることができるでしょうか。それは《信じる》ことです。
 
 クリスマスの出来事は、実は非常に困難な出来事の上にあります。結婚してないのに身ごもったマリア、大きいおなかを抱えて旅をする二人。泊まる宿屋がない。馬小屋で出産。このような次から次へと起こってくる困難の中で、マリアとヨセフはただ信じたのです。何を信じたのか。それはただひとつ「神様の御言葉」です。前向きに生きるために《御言葉》は命です。
 

2018年5月23日水曜日

「今日何を行う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「今日何を行う」


1コリント 15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。

伝道セミナーに参加して、一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。しかし、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということをいつも学びました。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。30人位の家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。100人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。先の夢にむかって今があることを考えてみたいと思います。

パウロは神様の教会を迫害したにもかかわらず、その彼が使徒となったのは「復活の主」との出会いによります。その出会いが恵みであり、神様によって「今」があるというのです。過去でも未来でもなく、「今在る者」として他の弟子たちより多く働いたと言っています。

ある本の中で次のような1節を見つけました。「プランニングにおいて重要なことは、明日何かを行うかを考えることではない。明日のために今日何を行うかを考えることである」。仕事にしろ、人生にしろ、いろんな計画を立てながら生きています。多くは明日何をするかを考えています。しかし、目標が何であり、なぜ自分は生かされているかを知ることによって、その明日のために「今日」何をするかが大切なのです。

パウロは神様から大きな恵みを受け、罪赦された者となりました。その時、異邦人への福音宣教というプランを与えられました。そのプランの実現のために「今日」何を行うべきか、「今日」あるべき姿を示すのです。自分の明日のために「今日何を行う」べきであるかを考えながら過ごしていきましょう。

2018年5月22日火曜日

「どこに焦点を」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「どこに焦点を」
 
 説教集「神様の色鉛筆」がやっと出版にこぎつけました。ひとつの本を出版すると、さまざまな反応が返ってきます。その反応が、ときには大変な気づきとなることがあります。
 
 さて、今回の説教集への反応は二通りあります。その一つは、「若い感覚の説教集ですね」「わかりやすい説教です」「簡単な言葉で神様の福音が語られているような気がします」といったもの。これはルーテル教会内の方々からの反応です。
 
 一方、もう一つの反応は、「前回のクレヨンからはちょっと難しくなりましたね」「私たちにはついていくのがやっとです」「考えさせられる内容でした」「少しミッションの学校でのことを思い出しました」といったものです。この反応は教会外の方々、結婚式で教会に来てくださった方々の反応です。
 
 この二つの反応から、牧師が語る内容は、とても難しく受け止められているのだと思いました。教会内の方々は聞き慣れた内容だけに、それが変わった視点で語られることに好意的だといえます。しかし、教会外の方々にとっては、もっと分かりやすい内容、言葉にしなければ福音は届いていかないのだと気がつかされました。言葉(キリスト)を伝えることは、大変な作業です。どこに焦点を合わせるのか、そのことがこれからの課題です。

2018年5月21日月曜日

「信仰というよりも」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「信仰というよりも」

ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。

イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。

信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。

本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。