2018年4月24日火曜日

否定語を使わずに

クレヨン牧師のミニエッセイ

「否定語を使わずに」
 
 「ひと言のちがい」という本に次ぎのような話がありました。
 
 「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。
 
 さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけづにすむものです。「京都の人は否定語を使わずに断るのがうまい」と作家・渡辺淳一さんは言います。どのようにうまいかといえば、男性がデートに誘う。相手方がその気がなければ次のようにやわらかく断る。「おおきに、ほんまごいっしょでけたらよろしおすな」。こういうふうに言われると傷つくほうも少ないように思えます。
 
 さて、主イエスの言葉はどうでしょうか。主イエスによる否定語ということを考えてみますと、あまりピンときません。むしろどんな御言葉にも励まされているように思えます。たとえいけないという言葉でも、それが私たちのことを考えた深い言葉であるならば、人は前向きに受け取ることができるのです。主イエスの御言葉はどんな言葉でも感謝して受け取ることができるのです。

2018年4月23日月曜日

「骨髄まで響く」


阿久根ルター君の朝のみ言葉

「骨髄まで響く」

 マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者

進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。

 イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。

「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」

イエス様は自分が神様の子であること、神様の心に適う者であることを受けとめておられました。その骨髄にまで響く親の心をわかっておられます。その御心が十字架の死であっても、み心に添ってその道を歩まれたのです。神様は私たちも子としておられます。そのみ心は知ることを始めたいと思います。

2018年4月22日日曜日

2018年4月21日土曜日

2018年4月20日金曜日

気ままな休日・五家荘ごはん

平家の里・五家荘へ行ってきました。
山奥の落人の里。さすがに山にしかない料理でした。
猪汁、ヤマメ刺身、塩焼き、甘露煮。
どれも最高!

2018年4月19日木曜日

自然と求めるもの

クレヨン牧師のミニエッセイ

「自然と求めるもの」
 
 「いま食べたいものが、身体の栄養に不足しているもの」と、どこかで読みました。そこで振り返ってみますと、私の場合は野菜が食べたくてしかたありません。ということはビタミン不足かなと思います。
 
 さて、あれは中学生くらいのときでした。母親のつくる料理に、一日おきにくらいに「野菜炒め」が出て来ることがありました。「野菜炒め」が出ないときは、どっさりのキャベツの千切りがでました。私たち兄弟そろって不平を言ったことを思い出します。兄なんかはお皿をひっくり返したのではなかったでしょうか。とにかく母が作ってくれた料理に文句ばっかり言った時期があったのです。
 
 いまにして思えば、あの頃の母は仕事に忙しかったころでした。朝はやくから夜おそくまで立ちづくめで働いているときでした。たぶん、野菜が多かったのは、母の身体が自然と野菜を求めていたためだと言えます。それに気が付かなかったのです。母の身体をいたわってあげられなかったことが、恥ずかしく思います。
 
 自然と求めているものがあります。それは自分ではわからないものです。なんでこの人はこればっかり言うのだろうとか、この本ばっかり読んでいるとか。しかし、よくよく考えてみると、それがその人の求めているものだと言えます。私はどれだけ、主イエスのことを考え、御言葉を口に出しているだろうか。そこに求めているかどうか、自分を吟味している秋です。

2018年4月18日水曜日

深めていく愛


阿久根ルター君の朝のみ言葉

「深めていく愛」

ユダ  1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。

 ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。

ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」

 私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。