2017年12月15日金曜日

2017年12月14日木曜日

「ほしかった携帯電話」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ほしかった携帯電話」
 
 もう20年前の話です。
 「新任教職オリエンテーション」に講師として参加してきました。私に与えられたテーマは「教会のおかれた地域・その働き」というものでした。多くの教会から、徳山教会は「どうも楽しいらしい」と思われているみたいです。もちろん不思議と楽しいことがいっぱいあるのですが。
 
 さて、新任の牧師の研修会で、牧師には携帯電話が必要であると確信しました。というのも、牧師はいつ何が教会の皆さんに起こったとしても連絡がつかなければならない。羊飼いは二十四時間体制なのだと知らされたのです。また、牧師家族の安心のためでもあります。留守中の教会には何が起こるかわからないからです。また震災の救援活動を通して、その大切さを理解できました。
 
 それで、コツコツためたへそくりで、さっそく「携帯電話」を買いました。いえいえ本当は持ってみたかったのです。これでいつでも連絡がつくことになりました。教会、皆さん、そして家族との連絡が常にできます。この安心感なのでしょうね。携帯電話を嬉しそうに眺めていると、華美が大きな声で叫びました。「お父さん、またおもちゃ買ってズルーイ」。
 
 どうぞいつでもお電話ください。

2017年12月13日水曜日

「もう一人いる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「もう一人いる」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

この世の中けっこう「こうでなければならない」が多いように思えます。ある時、結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言っていますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「一応『父親』となっていますが、そうでなければならないことはありません」です。しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。そのお母さんに牧師として答えようと思い「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持ちや、願いや、愛が含まれていると思いますよ。その気持ちを大切にしてあげてください。娘さんはお母さんと共に歩きたいのですよ」と答えました。

マリアの受胎告知の場面で、天使ガブリエルはもう一人の存在を告げます。聖霊によって身ごもることのお告げにマリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか」と言いました。それに対して親類のエリサベトも同じように聖霊によって身ごもっていると言うのです。同じ境遇のものがもう一人いる。これは神様がマリアにされた大きな配慮かもしれません。バプテスマのヨハネの誕生と存在は、この出来事を支える影の力だと言えます。

PTA会長をしていた時、耳の不自由な子がいました。挨拶運動で毎朝挨拶しても返事もなく、通り過ぎていくだけでした。あとで彼女の事情を知りました。転校生だったので征服も違うし、かばんも違いました。いつも一人ぼっちだなと思っていたのです。しかし、その子には一人だけ友達がいました。その子がいたので毎日学校へ来ることができたし、元気に卒業していきました。そのたったひとりの友達が、次女でした。

共に歩んでくれる人がいる。これは大きな恵みです。クリスマスのメッセージで「インマヌエル」という言葉があります。これは「神は我々と共におられる」という意味です。クリスマスの本当の意味は、神が共にいてくださるということです。

2017年12月12日火曜日

「何をしてほしいのか」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「何をしてほしいのか」
 
 たまにですが、愛美は夜中に泣き出すことがあります。大抵は喉が渇いたので牛乳をほしがります。ところが、ごくたまに何で泣いているのかわからない時があります。きっと自分でもわかっていないのだと思いますが、これは親としては困ったものです。「これをしてほしい」というものと、それが言える相手があるのは幸せなことです。
 
 阪神大震災のお手伝いをさせていただいている時、毎日全壊した家の前に立っているお年寄りを見かけました。何をするでもなく、ただ毎日同じ場所に立って呆然としておられたのです。声をかけてみましたが、「何をどうしていいのか、さっぱりわからないのです」と言われました。
 
 主イエスは癒しを願う人に、「何をしてほしいのか」と言われました。私たちは何と言うでしょうか。本当に求めてくる者に、主イエスはその心の深みにある願いをいいなさいと言われるのです。どうでもよいこと、どうでもよくないことを判断して申し上げなければなりません。
 
 全壊した家の前に立つお年寄りは「家庭の匂いを返してほしい」といわれました。人間の生命線がそこにあるように思います。

2017年12月11日月曜日

「捨てる・拾う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「捨てる・拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

「違う角度からの人生観」という本に、《信じること》と題して書いてあります。

「ぼくは小さくて、野球もフットボールもまだできない。だって八歳になっていないんだもの。それに、ママは、ぼくが野球をはじめても速く走れないって言う。足のしゅじゅつをしたからね。でもぼくはママに言ったんだ。『速く走れなくてもかまわないんだ』って。だって、ぼくが球を打つと、ぜったい野球場の外に出ちゃうんだから・・・。走る必要がないんだ。あとは歩いてホームインするんだ」。私たちは、人生の中で困難に出会うと、どうしても後ろ向きに考えてしまいます。なにかのバチが当たったとか、もうだめだとか。しかし、本当にだめなのでしょうか。そのようなことにぶち当たったときに、どうしたら前向きに考えることができるでしょうか。それは《信じる》ことです。

徴税人レビの召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。

山頭火という俳人の句に「秋風の石を拾う」というのがあります。山頭火は、財産を捨て、家をすて、故郷を捨て、家族を捨てて放浪の旅をしながら悟りの境地に近づいていく俳人でした。しかし、捨てても、捨てても煩悩はすてきれずに苦しんでいたようです。そんな中でふと「石を拾う」ということに何かを見出したのです。この石というのはただの石ころのことです。人間は捨ててばかりでは生きていけない、拾うということでバランスをとっているのではないかなと思います。大切なことは「すべてを捨てて何を拾うか」です。

徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。しかし同時に信仰を拾った(与えられた)のです。一番確かなものを与えられたことになります。ということは、イエス様を拾ったということです。今週もまた、一番大切なものは何かをかんがえながら過ごしていきたいと思います。