2017年11月23日木曜日

「神様がセキュリティー」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様がセキュリティー」
 
 教会には、多くのセールスマンの方がやってきます。事務機関係、電話帳、公告関係、新聞、有線放送、書籍などなど。先日もある業者の方がやってこられました。しかし、ちょっと首を傾げて帰っていかれたのです。その業種とは「セキュリティシステム」です。
 
 セールスマンいわく「このシステムは防犯のために役立ちます。いろいろな方の入室が防げます。二十四時間体制ですので安全です」とのことでした。私は「この教会はたとえそれが泥棒でも入ってよいのです。二十四時間鍵はかけてありません。いろいろな方が自由に入室してもいいのです。神様みずからがセキュリティーです」と答えました。すると彼は「そんな無茶苦茶でいいんですか」と言うのです。
 
 私たちにとって教会を守ることは大変なことです。しかし、それを機械まかせにしたり、誰かを雇ったりはできません。教会を守るということは、一人一人が祈るほかないのです。どうか祈ってください。教会がどんなときでも地域にたいしてオープンであることを、祈りで支えてください。神様の守りこそが最高のセキュリティーですし、そこに奇跡がおこるのです。
 

2017年11月22日水曜日

「信仰というよりも

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「信仰というよりも」

ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。

イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。

信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。

本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。

2017年11月21日火曜日

「人生の天然酵母」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「人生の天然酵母」
 
 宇部教会の松岡兄から、「手作りビール」をいただきました。その味たるや、まろやかで、とっても美味でした。この手作りビールについての苦労話を少しお聞きすることができました。
 
 この手作りビールの大変な所は、その温度管理・調節にあるそうです。なんでも室温二十五度から三十度を保たないと酵母が死んでしまうのだそうです。この温度を保つことがどんなに大変なことか、想像するだけで感謝していただけます。
 
 私もいま、天然酵母のパンを焼いています。酵母をつくるのに四十八時間かかります。それをパンにするまでに、今の季節では十二時間から十六時間を必要とします。酵母を死なせないように、絶えず見守っていくことが、ビールでもパンでも大切なのだと言えます。
 
 私たちの人生もまた、天然酵母(キリストの御言葉)が必要です。ちょっと目をはなしたら死んでしまいそうです。しかし、この御言葉酵母の素晴らしいところは、死んでもまた復活するとこにあります。御言葉酵母はたえずいただくことが大切です。復活させるには御言葉を読むことです。
 

2017年11月20日月曜日

「無一物」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「無一物」

2コリ 6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

先輩の牧師がラジオ番組に出演された時のことでした。その番組は、ある宗教がスポンサ-で、どうしても牧師と紹介できないとディレクタ-は困っていたそうです。録音の日になり、三人のゲストが揃い番組は始まりました。最初は司会者がゲストの紹介をします。さて牧師と言わずに何と紹介したのでしょう。「本日のゲストは、岡山大学の〇〇教授、ノ-トルダム女子大の〇〇教授、そして日頃ボランティアにがんばっておられる方です」。私たちはそれぞれ肩書きを持っています。また、肩書きで人を見たりもします。しかし、肩書きは肩書きでしかないのです。その人の全てではないということです。肩書きのないところで、自分は自分をどう紹介するでしょうか。

コリント2の手紙の6章でパウロは、コリントの人々へ語ってきたことを一度まとめています。結論としては「心を開くように」と勧めています。それが警告の言葉であったとしても、心を狭くせずに受け止めなさいというのです。パウロの言葉の背後には、パウロが持っている福音があります。何ももっていないパウロがもっているキリストのみ言葉によって「心を開くように」と言うのです。

千利休が陶工・長次郎に造らせた抹茶碗に「無一物(むいちぶつ)」というものがあります。松平不昧公(17511818)所持で知られる赤楽茶碗の名碗です。この茶碗になぜ「無一物」と名前がついたのか私にはわかりません。無一物とは、好き嫌いとか損得、良し悪し、などといった二見にとらわれた概念がないことです。囚われない心というのかもしれません。この茶碗をみていると、その存在のみでいいのだという気になってきます。どう受け取るかはあなた次第。そうするとこの茶碗には無限の解釈ができるということです。心を開いてみるときに受け取る無一物があるのでしょう。

パウロは「無一物のようで、すべてのものを所有しています」といいます。何も持っていないようですべてを持っているというのです。パウロにとってキリストの福音を持っているということは、すべてを持っているということと同じことなのです。私たちが人生の中で持たねばならないものは多くはありません。いや一つです。それがイエス・キリストなのです。

2017年11月18日土曜日

きままな休日・食べ過ぎ~~~

ちょっと調子にのって食べ過ぎてしました。
カレーだけ、うどんだけにすればいいのですが。
このお店は両方おしいのですよね~

2017年11月17日金曜日

姉妹教会の成長!

鹿児島教会が成長していますよ!
ますます聖なる空間になりました。
阿久根教会も礼拝出席がつねに二桁になりました!
神様に感謝!